吉良からのメッセージ

北方領土問題の本質と対応 その3 一般的にはあまり知られていない事実

今日は、北方領土問題シリーズ第3弾です。

北方領土問題を論じる際、人それぞれの主張がありますが、この問題に詳しい方でも、あまり知られていない事実が数多くあります。

まずは、次のような質問をさせてください。

(1)終戦直前、ソ連が満州に攻め込んできたのが、1945年(昭和20年)8月9日だったのは何故でしょうか?

(2)ロシアが、「第二次世界大戦の結果として、4島はロシア領土となった」と主張するのは何故でしょうか

(3)米国が北方領土問題に関しては、クリミア問題のようにロシアを厳しく批判、追及、経済制裁しないのは何故でしょうか

(4)1956年の「日ソ共同宣言」において、鳩山一郎総理が4島ではなく、2島「引き渡し」で折り合おうとしたのは何故でしょうか

(5)「日ソ共同宣言」において、2島で折り合おうとした事実にも拘らず、日本政府が2島ではなく、4島返還を主張し続けるのは何故でしょうか

如何でしたか。自信をもって答えられましたか?

多くの方は1945年2月の米英ソ3国首脳が会したヤルタ会談の「密約」の存在をご存じで、ヤルタ会談の密約の存在を上記質問の答えとして思い浮かべられたと思います。そうです。ヤルタ会談の密約の存在が一番大きな理由です。念のため、問いの答えを下記します。

<(1)終戦直前、ソ連が満州に攻め込んできたのが、1945年(昭和20年)8月9日だったのは何故でしょうか?の答え>

ヤルタ会談において、米英がドイツ降伏後3か月後のソ連による対日参戦を要求し、ソ連は南樺太と千島列島の領有を条件に受諾した(合意に達した)からです。

ドイツは、1945年5月8日に降伏しましたので、その3か月後の8月9日に満州に攻め込んだのです。ドイツ降伏後、ソ連は急ぎ、独ソ戦で活躍した精鋭部隊の兵士と軍事物資を極東に送り込みます。当時、米国の原爆開発が急ピッチで進んでいて、ソ連としては、米国による対日原爆投下の結果、日本が降伏するとみていましたので、日本の降伏前に参戦して、ヤルタ会談で約束された権益を得たいと焦っていました。

簡略に説明すれば上記のようになりますが、もう少し詳しく歴史的経緯を説明します。

実は、ソ連が英米両国に対日参戦の意思を表明したのは、1943年11月の「テヘラン会談」です。
また、その前月の1943年10月にクレムリンで開催された「第3回モスクワ外相会談」(ソ連からスターリンとモロトフ外相、米国からハル国務長官とハリマン駐ソ大使、軍事使節団長のディーン少将、英国からイーデン外相とカー駐ソ大使らが出席)の主目的は、ポーランド国境問題を中心とした欧州情勢に関するものでしたが、ソ連の対日参戦に関することも意見交換されました。
この会談の席上、英国イーデン外相はソ連・モロトフ外相に対し、「ヒトラーの撃破後に、英国は海軍を太平洋戦域に派兵して対日戦争へ参戦する意向であり、ソ連が対日参戦の意思を表明するならば海軍力をもって軍事支援する」ことを提案しました。
また、米国ハル国務長官がモロトフ外相に対し、「南樺太と千島列島をソ連領とする見返りに対日参戦を要求した」とも言われています(但し、この内容に関するソ連公刊戦史や戦史関連資料に記載はない)。
一方、この会談最終日の晩餐会の席上、スターリンが米国ハル国務長官に対し耳元で囁くように、「ドイツ撃破後の対日参戦を伝えた」ことは広く知られています。

つまり、ソ連の対日参戦はヤルタ会談前から、米英ソ間で話し合われていたわけですが、ヤルタ会談において、その条件を含めて正式に合意されたのです。

そして、1945年4月5日、ソ連・モロトフ外相が佐藤尚武駐ソ大使に対し、日ソ中立条約の第 3条を行使して、日ソ中立条約の延長破棄を通告しました。

ソ連は、日本の降伏前に対日参戦したいと焦っていたので、ドイツ降伏後3か月以前の参戦も検討していました。しかし、準備が間に合わず、結局、ヤルタ会談の取り決め通り、ドイツ降伏後3か月後の1945年8月8日午後5時(モスクワ時間、日本時間は8日午後 11 時)に宣戦布告し、翌8月9日に満州に攻め込んだのです。

長くなりましたので、質問(2)以降の答えは、次回とさせて戴きます。もう少し簡略化してお伝えしますので、是非、お付き合いください。

尚、本メルマガの歴史的記述については、防衛研究所・戦史研究センター・戦史研究室・主任研究官・花田智之氏の論文「ソ連の対日参戦における国家防衛委員会の役割」を参照しています。

吉良州司

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