吉良州司の思索集、思うこと、考えること

1989年7月7日

1989年7月7日 岩田学園講演

1989年、坂本龍馬の歌「世の中の、人は何とも言えば言え、我が為すことは我のみぞ知る」を講演テーマに、「自分の目で見て、自分の心で感じて、自分の頭で考える。そして、自分の言葉で表現しよう!」と岩田学園の中1から高3の子どもたちに熱く語る講演録。
高校時代の生活や考え方、霊山遭難事件の詳細の話に加え、世界を見てきた経験から「世界は広く、歴史は深い。そして将来には夢がある。将来どういうことをやりたいという自分なりの夢を抱いて、自分を信じて自分の進路を決めてほしい」と熱く語りかける。

「世の中の、人は何とも言えば言え、我が為すことは我のみぞ知る」

自分の目で見て、自分の心で感じて、自分の頭で考える。そして、自分の言葉で表現しよう!

1989年7月7日 岩田学園にて

皆さん、おはようございます。
ただ今、ご紹介いただきました吉良です。私は今から13年前、大分舞鶴高校を卒業したわけですが、その際、1年生と3年生の時に教頭先生に数学を教わりました。又、教頭先生を通して理事長を御紹介頂き、その縁で、今こうして皆さんの前に立っているわけです。皆さんが興味をもつ話になるかどうかは自信がありませんが、今日は私が高校時代どういうことを考えて日々を過ごしてきたか、また大学時代やブラジル留学時代はどうであったか、更には今どういうことを考えて生きているのか、についてお話したいと思います。

高校時代

それではまず私が高校時代どういうことを考え、どういうことをしていたか、についてお話します。

1 第2次合同選抜により大分舞鶴高校へ進学

私の高校生活に最も大きな影響を与え、その後、私自身の生き方のひとつの出発点となる出来事が、中学3年生の12月に起こりました。それは、雄城台高校という進学校を新設し、上野、舞鶴とともに合同選抜制度を導入するということが、高校受験の僅か2ヶ月半前である正月に決定されたことでした。
それまでは上野ヶ丘高校を受験しようと思っていたのですが、合同選抜制度の導入ということで、舞鶴高校のお膝もとである城東中学の生徒は、舞鶴に希望を出す様指導を受けました。受験のやりかたは、3校全体で1200名位の定員だったと思いますが、3校全体をあたかも一つの高校のような形で受験するわけですが、一応「希望校」というものを出すことになっていました。
私は野球部に属していましたが、この悪ガキ連中は、成績も非常に優秀で、他の同級生に大きな影響力を持っていましたので、この仲間達と、一体どうするかについて話し合いました。
予定通り、当時一番優秀な生徒が集まるといわれていた上野ヶ丘高校に希望を出すか、それとも「第一回生」として、新生雄城台高校の伝統を自分達で築き始めるか、はたまた指導する先生を困らせない為、舞鶴に希望を出すのか。議論は百出しましたが、上野ヶ丘高校に出そうという意見は早々と消えていきました。あまのじゃくが多かったせいか、No.1の高校にそのまま行くのは面白くない。新しい高校を自分達でつくるか、又は、舞鶴を自分達の手で「男にする」 「復活させる」か、のどちらかにしようということになりました。最終的には、舞鶴を自分達の手で男にする、という結論を出しました。現実的な問題として、雄城台高校は皆が住んでいる所からあまりにも遠すぎるということがあったからです。自分達が舞鶴に行くことによって「舞鶴を盛り上げよう!、そのような理由から舞鶴に出すことに決めたのです。

今から思うと、なんと生意気な、思い上がった中学生だったのかと恥ずかしくなってきますが、先程も言いましたように、当時この仲間達はクラスに戻れば、ほとんどがルーム委員長であり同級生にも圧倒的な影響力を持っておりましたので、思い上がりというより責任感、使命感のようなものを感じていたわけです。
因に、一市立中学校の野球部でありながら、これらの仲間達は、後に東大2人、京大、九大、早大、岡山大、大分大に一人ずつ、熊大にも2人が進学しております。文武両道の個性の強い、極めつけに面白い仲間達でした。
4月には、希望通り晴れて舞鶴高校に入学しましたが、そこには非常に嬉しいことと、残念なことの両方が待ち構えていました。
非常に残念だったことは、舞鶴高校入学に対し、不平、不満を言う人がかなり多かったことです。合同選抜をいいことに、上野に希望を出していた人が多かったのです。当時はまだ「人は何とも言わば言え、我が為すことは我がのみぞ知る」というような心境には至っておりませんので、悔しい思いで一杯でした。
ところが、世の中、悔しいことばかりではありません。入学後即ルーム委員長に任命された私は、生徒会の由布院研修に参加することになったわけですが、そこですばらしい人に出会いました。当時2年生の生徒会長です。彼は最後の単独選抜の時にただ一人だけ「舞鶴を男にする」為に入学した人で、彼により舞鶴の歴史及び建学の精神を教わりました。
舞鶴高校は第2次大戦後、旧制大分中学の後進である上野ヶ丘の姉妹校、いわば弟分として新設されたわけですが、最初は上野、舞鶴の2校による合同選抜が行われました。ところが、舞鶴には伝統もないどころか校舎もなかったのです。最初は王子中学の校舎を借りて勉強することになっていたものですから、運悪く舞鶴となった人達は親共々皆3日3晩泣いたそうです。しかし、舞鶴初代校長・橋本喬木先生は、「舞鶴に来たことを絶対に後悔させません。必ず舞鶴に来てよかった、と喜んでもらえるような教育をします」と毅然たる態度で親に言ったそうです。文武両道に秀でた高校として、上野に負けるな、追い越せ、という舞鶴の歴史が始まったのです。この気合が効を奏してか、合同選抜開始後10年間、スポーツ、進学、双方とも、上野と互角もしくは凌駕していたそうです。10年たった頃、独り立ちできる自信を持った舞鶴は、舞鶴から合同選抜を打ち切り、単独選抜を主張し、単独選抜に移行後は優秀な生徒が舞鶴に殺到するようになり、その後数年間は舞鶴が実力No.1の高校として君臨した、とのことでした。その後、旧制大分中学OB達が母校・名門上野はどうした!舞鶴の後塵を拝してもいいのか!という議論が沸き起こり、上野が優秀な中学生をスカウトするようになり、再び上野No.1、舞鶴No.2という状態になっていったようです。その状態がしばらく続いた後、雄城台の新設とあわせ第二次合同選抜が行われたのでした。
この舞鶴の歴史を先輩の生徒会長から聞いたとき、私は震えるような感動を覚えました。「これだ!俺が求めていたものはこれなんだ!逆境の中に自ら身を置き、そこから這い上がる、この生き方こそ志ある男の生き方なんだ!」と目が覚めるようで、それからは上野希望組も何となく許せるようになり、「舞鶴を男にするぞ!」という初志を改めて貫徹しようと決心しました。
由布院の研修から戻った私は、さっそくクラスの仲間達に言いました。「みんな!けじめをつけた生活をしよう!勉強する時もとことん、体育祭や文化祭の時は、今度は勉強なんか忘れて、とことん楽しもう!」と訴えかけ、クラスメートも同調してくれました。
そして2年生になると、今度は自分達が生徒会を作る学年です。私も幹部の一人として生徒会活動に精を出すことになりました。掲げた目標は「復興・舞鶴」です。具体的には大分県一の文化祭、体育祭を挙行し、ラグビー部を日本一にする。そして勉強も一所懸命やって、みんな目指す大学に進学する。このような目標に向かって努力を重ね、とにかく悔いのない高校生活を送ろうというのが最終目標でした。
お陰で文化祭、体育祭は県下一の盛大なものとなり、ラグビー部は全国優勝、野球部も県大会ベスト4に入るなど大いに盛り上がりました。
ただ、この生徒会活動中、特に文化祭、体育祭前は、生徒会幹部にとっては大変な日々でした。夜中まで準備することが日常的になり、家に帰れない日も多々ありました。舞鶴には寮があったのですが、寮生と仲の良かった私は、よく夜中に、「おい!起きろ!早く起きて勉強でもしろ!」と寮生をたたき起こし、自分がそのベッドに寝たりしたものです。学校には毎日、眠りにいっているようなもので、宿題は勿論、予習・復習もできず、ましてや試験勉強など出来ようはずがありません。成績は下がる一方で、「これで本当にいいのだろうか」と悩んだこともありました。又、私は体育祭実行委員長兼クラスマッチ実行委員長とう役職についていたのですが、「自分達で本当にあの大規模な体育祭を間違いなく運営していくことができるのだろうか」と不安になり、体育祭推進責任をもつ仲間達とやけになって徹夜麻雀をやり徹夜麻雀明けは大分川の河原に行って夜明けを見、その後、昼間まで眠りこける、というようなこともありました。
この時、生徒会で一緒に悩み、苦労した仲間たちとは31歳になった今でも連絡を取り合い、酒を飲み交わしています。

2 霊山遭難事件

この暴れん坊生徒会活動は2年生の前期で一応終えるのですが、3年生に至るまでのその、盛り上がった雰囲気はそのまま続きました。その総仕上げといえるものが3年生の10月末に起った、というより、起こしてしまった「霊山遭難事件」です。
ことの発端は、一緒に生徒会をやっていた2人の仲間と私で、「これだけ盛り上がった23回生の最後のお別れ遠足は、思い出に残る盛大なものにしよう。先生が決めたルートではなく前人未到のコースを見つけ出そう」というような方針を立て、中間試験の前日である日曜日、3人で前人未到ルートを探しに出掛けたのです。
最初は順調に歩いていたのですが、山の中に入っていくにつれ、次第に道がわからなくなり困り果ててしまいました。そこで小さな丘に上がり、そこの一番高い木に私が登って四方を見渡し、下で地図を見ている者と位置の確認をしようとしましたが、やはり正確な位置は分からずじまいで、結局その木から見えた民家を尋ねて道をきくことにしました。その民家はとても親切で、その裏手にある大きな山にはその年の2月以降、人が登っていないこと、頂上付近に神社があることなどを教えてくれました。その時既に3時で、山に登るには遅い時刻だったのですが、前人未到のルートを探しに来たわけですから思い切って登ることにしました。
その山は、後になってわかったことですが、霊山の裏側にある大分市最高峰・障子岳751メートルで、傾斜は急で奥深く、途中たぬきにも出会いました。登りながら「こんなとこ、女の子が登ってこれるんか?」との疑問も湧いてきましたが、「ラグビー部の連中など元気のいい男を10人くらい横に並べて先頭を歩かせれば、道ぐらいすぐできるやろう。それでこそ、23回生の遠足やねえか」などと、のんきなことを言いながら、しかし全身はトゲ・いばらの為に傷だらけになりながら登っていきました。
頂上付近まで来た時、残念ながら日が暮れてしまいました。薄明かりの中、「道だ!」と見えたものは、白くなったススキの林であったりして、結局、道も神社も見つけられず尾根を横切りながら神社からは遠くへ遠くへと離れていったようです。
大分市の山ですから、山の頂上付近からは民家の灯りがよく見え、真っ暗闇の中ですと特に間近に見えるのです。その灯りを目指して尾根を横切りながら下るのですが、行けども行けども次の尾根が出てくるばかりで、灯りもなかなか近づいてくれません。しかも頂上付近は月灯りがあって少しはあたりが見えるのですが、少し下がった段階では月灯りも届かず、仲間のうちの一人が崖から落ちそうになったので、それ以上歩くことは諦め、そこで寝ることにしました。
腹は減るし、10月下旬ですから寒くて寒くてしようがありません。たまたま持っていた新聞紙を服の下から身体に巻き、あたりの草という草をとって布団代わりにしてその中にもぐりこみました。それでも寒くて寒くて、腰に氷水がしみこんでいるような感じでした。「こりゃあ眠ると死ぬなぁ」と思いましたので、3人で順番に、または一緒に大きな声で歌を歌いながら朝を待つことにしました。信じてもらえないかもしれませんが、たぬきが一匹、一晩中自分達のそばにいて2つの目を光らせながら私達の歌を聞いてくれました。これ、本当の話です。
何と言っても悔しかったことは、家への連絡手段がなかったことで、「とうちゃん、かあちゃんがものすごく心配しちょるやろうのう。電話がありゃ、一言 “今日は山で寝るけん帰らん”ち言えるんやけどのお」と、この時程、電話という文明の利器の必要性を感じたことはありませんでした。
幸い、死なずに朝を迎えることが出来、昨夜来、聞こえておりました小川のせせらぎを目標に谷を降りることにしました。川は必ず海にでるから、川を伝わって下れば大分市に出られると思ったからです。200メートル程の谷を降りると、急流が勢いよく流れていました。身軽な私が前日からずっと先頭を歩いていましたが、その日は長い棒を持って、あちこちに張り巡らせたクモの巣を取り払いながら、川の中を膝まで浸かりながらベチャベチャ歩きました。途中、滝もあり、これはターザンのようにつるにぶらさがりながら降り、トンネル状になった流れは迂回りしました。又、背丈の倍のある草が生えている沼もザブザブ歩き通しました。人の心配をよそに、「こりゃあ面白りい、こげん経験はめったにできんのお。一番いい思い出になる」などと、のんきなことを言いながら漸く里の気配がする場所まで降りてきました。
やっとのことで民家を見つけ事情を話すと親切にラーメンを御馳走して下さり、待望の“電話”を貸してくれました。―――「もしもし、かあちゃん?俺や。ゴメン、昨日は山で日が暮れてしもうて帰れんかったんや。今から帰るけん。」―――と、母親に電話すると、目の前が真っ暗になるような返事が返ってきました。―――「あんた、何言うちょんの。無事ならよかったけど、もう捜索隊が120人も出て山に入っちょんのよ。それに舞鶴の寮生たちも今探しにいってくれたとこよ。」―――というものでした。「ああ!やっぱり間にあわんかったか!」、もはや絶望的でした。
それからというもの、その民家には続々と報道関係者が到着し、夜のニュースでは大分県版のトップに出るし、合同新聞には、「3高生、帰らず!霊山で遭難!」とかなんとか3面記事を埋め尽くし、朝日、読売新聞にも、「霊山で遭難!」と書かれるわ、惨惨な目にあいました。
その頃、中学生だった私の弟は、学校に行くと、「おい、聞いたか!高校3年生にもなって霊山で遭難する馬鹿がおるぞ!」と話しかけられ、「そげえ言うな。あれ、俺ん兄貴じゃ」と、えらく恥ずかしい思いをしたそうです。
その日は、中間試験の日でしたが、試験は受けずに欠席し、午後からは、学校、警察、消防団へのお詫びとお礼に走り回りました。しばらく前人未到だった障子岳は、一挙に120人も足を踏み入れることになりましたが、血だらけになって見つけようとした前人未到のルートは、遠足ルートとしては採用されず、結局、先生が決めたルートになってしまいました。
佐藤先生をはじめ、23回生を受け持った先生方には、随分心配かけてしまいましたが、自分としては、この遭難事件により「もうこれで高校生活に思い残すことはない。十分以上に満喫した」という気持ちになり、それからは落ち着いて勉強しました。幸い、3月には何とか東大の文科1類に合格することが出来、苦しい時もあったけど楽しかった高校生活に花を添えることが出来ました。

霊山遭難事件の大分合同新聞記事

以上、私の高校生活を大雑把にお話しましたが、私はここで「みなさんも是非遭難してください」というつもりはありません。言ったら、後ろの先生方から石が飛んできます。
私が舞鶴を選んだ過程、また、舞鶴を男にするぞ!と燃えていた高校生活と、皆さんが新生岩田中学・高校に入学した経緯や「自分達が今から新生岩田中学の伝統を築いていくのだ」という気概に共通点が多いのではないかと思ったからです。又、もし、まだ自分の目標がはっきりしていない人がいるとすれば、私の話を聞いて、今からでも自分の目標や夢、更には高校生活を送る上での気構えなどを、考え直す契機となってくれればこれほどうれしいことはありません。
目標や夢といっても、学校や先生、又、親の為に設定したり、抱いたりする必要はないと思います。飽くまで皆さん一人一人の為です。私は先程“苦しい時もあったが楽しかった高校生活”という話しをしましたが、時間的には苦しい時の方が多かったと思います。プレッシャーが多ければ多い程、それを克服し終わった時の喜び、楽しみは大きいと思います。山の頂上に立った時の満足感と同じだろうと思います。その意味でも、“Welcome Pressure!”、どんどんプレッシャーを抱え込んで下さい。
何故そういうことを言うのかと申しますと、皆さんは今、勉強しなければいけないと思いつつも、本も読みたい、恋愛もしたい、スポーツもとことんやりたい、と色々なことをやりたい年頃だと思います。それをひとつでも捨てることなく、全部やってみて下さい。そうすれば否が応でもプレッシャーが多くなり、今は苦しいでしょうが、後から振り返った時「満足感あふれる中学・高校生活だった」といるようになると思います。

それでは次に、少しだけ大学時代のことをお話し、その後で私の持論であります「自分の目で見て、自分の心で感じ、自分の頭で考える。そして自分のことばで表現する」ということについてお話したいと思います。

大学時代

1 大学進学の目的

高校を卒業する直前、私は、高校2年生のあるクラスの担任に「どういう目標・希望をもって、どういう大学を受けるのか、生徒に話をしてくれ」と頼まれました。その時、私は次のような話をしました。
「昨日、テレビを見ていたら、アメリカで21世紀を睨んだ馬鹿でかい空港を建設する、というニュースがあった。アメリカは常に先々のことを考え、長期的視野で物事を進めるが、日本をみていると、この大分市など一年中、道路を掘り返してばかりいる。一体、将来に亘る長期展望を持っているのだろうか。私は、大きな広い視野で物事を見られる人間になりたい。そして将来は、日本は外国に資源を求め、日本で作った製品を外国に売ってしか生きていけない国だから、海外での先駆者として働きたい。今、日本はエコノミックアニマルと嫌われ、相手のことなど考えないで経済進出している。私はまず、その国に行って、その国の風俗、習慣、文化、価値観等を体得し、本当にその国の為になるような進出かどうか見極め判断する、そのような仕事がしたい。
東大の教養学部には、国際関係論学科という学科があるが、そこで勉強する為に東大の文科1類を受ける」と。大学では結局、教養学部の国際関係論学科ではなく、法学部政治学科に進みましたが、受験する時は国際関係論学科に進むつもりでした。

2 失望と新たな目標

そういう思いを胸に、大きな希望を抱いて東大の門をくぐった私ですが、またまた失望するはめになりました。東大には全国からいろんな夢を持った志のある者達が集まるものと信じ切っていたのですが、実際は、小学校の頃から塾に通い、東大に通ること唯一目的としてきた、又、東大入学後は、さらに上の試験、たとえば司法試験、上級公務員試験、外交官試験といった試験を受けることを目的として大学生活を送ろうとする連中が多かったのです。
勿論、すべてそういう人達ではありませんでしたが、「試験を通して、世の中で“えらい”といわれている地位を得よう。その後どうするという夢や目的があるわけではなく、“せっかく東大法学部に入れたのだからその先の試験を受けなければもったいない”」という人間が多いのには失望しました。
その時、自分自身に誓ったことは、「俺は東大生だからといって、一人の人間として優れているわけではない。また、何かの地位や資格を得たからといって人間的にえらいわけでも何でもない。自分は裸の吉良州司として大きな人間になろう!他人や世間一般の価値観に付和雷同しない、自分自身の価値観を絶えず追い求める人間になろう!」ということでした。

3 山岳サークルの主将として

山に明け暮れた大学時代 立山 甲斐駒ヶ岳、三つ峠でロッククライミングの訓練

えらそうなことばかり言っていますが、授業にはあまり出ませんでした。東大教授というのはすごいんだろうなあ、と、それまでは思っていましたが、研究者としては優れていても教育者として優れているわけではありません。“目の鱗”を落としてくれる教授の授業には熱心に出ましたが、他の授業には、ほとんど出ませんでした。また出ることも出来ませんでした。
霊山遭難事件が余程面白かったのでしょうか、それとも根っからの冒険好きが、そうさせたのでしょうか、入学後すぐ「東大法学部山の会」という山岳サークルに入り、毎週のように日本各地の山に出掛けていったからです。冬山もロック・クライミングもやりました。向こう見ずだった私は、雪山でよく滑落し、一度は200メートルも転落して、同僚を心配させたこともありました。その豪快な落ち方に、ありがたくもないのですが「吉良落ち」という固有名詞までついた程です。
この山岳サークルでの強烈な思い出があります。それは「責任」というものの、耐えがたい程の重みです。大学3年生の時、私はこの山岳サークルのリーダー(主将)に就任しました。1、2年生の頃まで岩場といえば自分の庭みたいにひょこひょこ歩き回って、というより、走り回っていたのですが、1年生を連れて翌日危険な所に向かう時など、1年生が落ちるのではないかと、心配で眠れないのです。
あいつは、一番体力がないから、その後ろに一番信頼のおけるあの3年生を配置しよう。あの1年生の後ろにはあの3年生を、といった具合に、一晩中考え込んでいました。おまけに当日も自分の足が震える程に慎重なのです。山では、一切の指示がリーダーから出ることになっており、全員その指示に従ってくれるわけですが、その代わり、一切の責任はリーダーにあります。人の命を預かっているということ程、重い責任はありません。「吉良落ち」を何度もみた先輩リーダー達には、随分心配をかけていたのですね。生きた心地もしなかったのではないかと遅蒔きながら反省していました。
皆さん方も修学旅行や体育祭など、もっと自由にやらせてくれ!先生あれこれ規制を設けないでくれ!という思いが強いかもしれませんが、皆さんの命を預かる先生の立場というものにも一度は思いを馳せてみて下さい。もっとも、霊山遭難事件を起こした私が言っても説得力はないかもしれませんが。

4 他大学の有志と勉強会

ちょっと話が横道にそれましたが、授業に出ずにやっていたことが、も一つあります。それは、他大学の有志も集めて「国際政治経済研究会」という勉強会を作り、資源小国日本の現状分析と将来どうあるべきかについての検討、そして自分達は、現在、将来、一体何を為すべきか、について考えました。実際は、毎週一回、誰かが研究発表し、それについて議論を重ねていくというやり方です。
この勉強会を重ねる中で、「総合商社」というものが日本の貿易、経済に多大な影響を及ぼしていることを知り、これが日商岩井という商社に入るきっかけとなりました。
それでは、その日本の貿易、経済に多大な影響を及ぼす総合商社とは一体如何なるものか、本当はご紹介したいところですが、商社の中にいる人間ですから、それが一体何物か分からない程その機能は多様ですので、とても短い時間で説明するわけにもいきません。それ故、今からは、日商岩井という商社に入って世界のいろいろな国、いろいろな人と出会うことが出来た経験に照らして、現在私が感じていること、考えていることをお話したいと思います。ここからは、話があちらこちらに飛ぶと思いまが、勘弁してください。

世界は広く、将来には夢がある

1 ブラジル留学

入社後4年間、人事部で新入社員の採用、研修という仕事をしていましたが、その後会社の留学試験を受け、希望通りブラジルに一年間留学することになりました。ブラジルを希望した理由は、ブラジルにはとてつもなく大きな夢がありそうで、しかも本来可能性が極めて大きい国であるにも拘らず、その時点では多大な借金に苦しんでいましたので、その実情を見たかったことが一つ、そして二つ目には、日本とは全く違った考え方、価値観があるような気がして、そのような社会の中で暮らしてみたかったからです。ブラジルで感じ、考えたことは山程あるのですが、ここでは3つのことをお話したいと思います。

ブラジルのアマゾン川河口の街ベレンで木登りする吉良州司

第一は、彼らが底抜けに明るく楽観的であるということです。
ブラジルはサッカーで有名ですが、リオデジャネイロに世界的に有名なサッカー場があります。そこでブラジル対パラグアイの試合があり、私はバスに乗って、住んでいたジュイス・デ・フォーラという学園都市からリオに向かいました。まあ、大分バスか大分交通で別府の実相寺サッカー場に向かうようなものです。時間的には3時間位かかりますが、そのバスの中で皆、例のサンバのリズムを取りはじめ、チャカチャカ、チャカチャカ、ブラジル!と全員がやり始めるのです。バスの天井や窓、自分の膝と、次ぎから次へジャカジャカ、ジャカジャカやる。それも、貸し切りでもない普通のバス中でやる。――「こいつらアホか!」、と最初は思っていましたが、次第に自分も我を忘れてブラジル人になりきり、ジャカジャカやりはじめました。
彼らは皆貧乏です。所得など日本人の5分の1もありません。それでも、みーんな幸せそうにニコニコしています。そこには「お金がすべて」「経済的効率がすべて」という日本人の価値観とは違う全く別の価値観があるのです。
それは「明日は明日の風が吹く、今日一日を精一杯楽しく生きよう!」といったような価値観でしょうか。日本のように、絶えず将来への不安、危機感を抱きながら今を一生懸命働き、勉強するのとは大きな違いです。
それは、極めつけに楽観的な考え方、物の見方にも表れています。ブラジル人に、“Voce pode falar Engleze? (Can you speak English?)”と質問しますと、必ずとっていい程、”Sin, posso falar (Yes, I can)”という答えが返ってきます。ところが「ああ、しゃべれるのか」と思って英語で話しかけてみても、相手はキョトントンとしています。せいぜい“Good morning” “Good afternoon”か “Thank you” を知っている程度で、とても日本人の感覚では「しゃべれる」というレベルではないのですが、彼らは「英語がしゃべれる」と思っているのです。事実、Good morning も、Good afternoon もまぎれもない英語であり、フランス語でもドイツ語でもありません。やはり、「こいつらアホか!」と思っていましたが、だんだん彼らのこの感覚が好きになってきました。自分にそのような感じ方ができるか、といって、それは無理かもしれません。しかし、彼らの感覚は好きになったのです。

この感覚は今の日本にとって非常に大切な感覚だと私は思うのです。
何故なら、例えばこのコップですが、「ああ、あとこれだけしか残っていない」
という悲観的な見方をしますと、その後、捨てられる以外この水の使い道は
ありません。逆に、「ああ、まだこんなに残っているのか」という楽観的な
見方をしますと、小さな花にこの水をやろうとか、タバコの火を消そうとかいった具合に、「この水を何に使おう」という前向きな発想が出てきます。これは、非常に大事な感じ方、考え方だと思います。
勿論ブラジルは、このアホかと思われる程楽観的な為に、莫大な借金地獄に陥っていることも事実です。1200億ドルという借金の一部は、首都ブラジリアと世界最大といわれるイタイプ-発電所の建設に使用されています。
首都ブラジリアは、広大なブラジル高原のど真ん中の、全く何もなかった草原に建設された雄大な人工都市で、その景観は人を感動させずにはおきません。何故こんなところに首都が建設されたかというと、この20世紀後半、21世紀に向けて、アマゾンとブラジル高原を開発していくには、その最前線に首都もっていくのが一番いいと判断してのことです。
口だけ地方分権叫びながら東京機能の分散を全く本気で考えていない日本とは大きな違いです。
又、イタイプ-の発電所は、イグアス川という川を堰き止めて出来たダム湖が途方もなくバカデカク、その土地の気候まで変えてしまったという壮大なもので、事実、世界地図が書き変えられている程です。
この二つの大プロジェクトは、結果論としては大失敗で、ブラジル国民に借金返済という重荷を背負わせることになりました。オイルショックによって鉄鋼や石炭など、ブラジルの一次産品輸出が計画通りに伸びず、結局、アマゾン・ブラジル高原の開発も進まず電力の需要も伸びなかったからです。
世間では、この結果をみてブラジル批判をする人がかなり多くいますが、私は、結果論としてのブラジル批判に耳を傾けようとは思いません。

私が二つ目に言いたかったことは、ブラジルの人のこの勇気をおおいに讃えたい、ということです。物事を為す場合、先見性や将来の分析、見通しなど、充分検討しなければならないことは勿論ですが、結果論的な他人の批判を恐れていては何も出来ません。将来に向けた夢を実現する祭に一番大切なものは「勇気」だと思います。

3つ目は、「自分の目で見て、自分の心で感じて、自分の頭で考える」ということが、だんだん身についてきたということです。
私は、留学の長期休みを利用して南米南部を距離にして2万Km、これは地球半周分で東京―シドニー間が7800Kmですからその3倍弱の距離にあたるのですが、時間にして280時間、バスに乗って旅をしました。

26歳 アルゼンチン バリローチェにて


アマゾンやアンデス山脈、またチリ北部のアタカマ砂漠という危険地帯にも行くつもりでしたから、出発前、東京の人事部の友人に「遺書」みたいなものを送り届けました。ブラジル外に出ることを会社は禁じていたので「もし、万一事故があった場合でも、一切の責任は自分自身にあり、私を監督する立場にあったリオの店長や人事部には一切責任ありません」という内容のもので、事故があった場合にのみ開封してくれ、ということにしておきました。
ブラジルは、アマゾン下流の都市ベレンとサンパウロを結ぶ56時間直行バスとかサルバドールとリオ間36時間直行バスとか、日本では信じられない程の長距離バス路線がありますが、日本の旅行とは違って非常に面白い経験ができます。
それは、熱帯雨林、ステップ、サバナ、内陸高原気候など、いろいろな気候帯の移り変わりを、一台のバスの中から楽しむことができるからです。正直言って、私は地理の勉強にはあまり熱心ではなかったのですが、亜熱帯気候のリオから内陸高原気候のブラジリアへ、そしてアマゾンに向かう途中は、サバナ、ステップと、昔地理で習った気候とその植物が次々と移り変わっていくのです。勿論、そこで生活する人々の家の形、服装、人柄なども移り変わっていきます。
そうしますと、56時間も暇がありますから、いろんなことを考えるようになります。特に、ある地域の気候・風土がそこに住む人の習慣や物の考え方にどのような影響を与えるだろうか、自分なりの感じ方、考え方がでてきます。「こりゃあ、ブラジル人に働けといっても、土台無理な話だなあ。腹が減ればバナナを食えばいいし、のどが渇けばヤシの実を割って飲めばいいし、女性は美しいわ、景色もいいわで、これでは楽観的になるのも無理ない話だなあ、貧乏でも何か幸せそうにニコニコ笑っているのも、なにかとても自然な感じがするなあ」といったような感じ方です。

2 世間の「常識」に対する疑問

一方、バングラディッシュという国にいきますと、状況はガラッと変わります。まず笑っている人を見かけることはめったにありません。皆この世界の不幸を一身に背負って生きているような悲愴な顔をしています。
―― ここからは、私の見たこと、感じたこと、考えたことが、あちらこちらに飛びます――
まずバングラディッシュの気候は雨期と乾期がありますが、その雨期のすさまじさは大変なものです。工事現場の穴はすぐに池になってしまいますし、何よりも感動的なのは、首都ダッカ空港に降りる際、上空からダッカ市内を見ると一面水浸しで、というより、海や川が街まで溢れ出てきていて、というのも、この国は大半が海抜3m以内という土地なのですが、目指す空港はまるで空母のように浮かんでいます。最初は一体どこに降りるんだろうかと不安になったものです。
又、この国の貧しさは想像を絶するもので、人々の交通手段は転力車(人力車を自転車でこぐもの)で、高湿・多湿の中、汗びっしょりになって一生懸命こいでいますが、一日の稼ぎはせいぜい日本円で30円くらいでしょう。
私達は、中学・高校時代、一つの民族が独立した国を持つこと、又、民主主義が疑う余地のない善、最高の制度だということを学びますが、この国の人は、「イギリスの植民地時代が一番良かった」と思っているのです。又、ちょうど国政選挙の時にこの国にいたことがありますが、ほとんど人が文字を読めない為、各政党は、我が党は、「船」、我が党は「鍬」我が党は「魚」といった具合に絵を書いて、それもポスターなどはありませんから、壁に書くのですが、「この絵の政党に投票しろ!」と選挙運動しているのです。主義・主張も政策もありません。おまけに放っておくと誰も投票に行きませんから投票にいくと食べ物がもらえるという風にして、投票に向かわせるのです。
こういう情景を見ていると、「この国に今、民主主義が果たして必要なのだろうか?先進国の形だけ真似をしていて、本当はこの国にとって一番いい制度ではないんじゃないか」と思えてきます。
この国は、独立する前は東パキスタンといって、インド・ヨーロッパ語族系の西パキスタンに支配されており、そこの搾取がひどかったものですから多くの血を流して独立を勝ちとったわけですが、東西パキスタンとも以前はインドと共にイギリスの植民地でした。それ故、もしバングラディッシュがイギリスの植民地に戻ることができるなら、一人一人の庶民にとっては、その方が幸福なのではないか、などとも考えてしまうのです。そして事実多くのバングラディッシュの人がそう思っているのです。
こういう話をしますと、「とんでもないことを言うやつだ」とのお叱りを受けるかもしれませんが、一部の支配階級は別として、庶民の生活・幸福について、自分の目で見て、自分の心で感じて、自分の頭で考えると、どうしてもそのように思えてしまうのです。

ちょっとここで質問してみたいと思います。
バングラディッシュの宗教はご存知ですか?・・・・・そうです。イスラム教です。
では、どういう国がイスラム教を信じているかご存知ですか?・・・・・そうですね、サウジアラビア、イラン、イラク、パキスタン、シリア、リビアなど中近東の国が多いですね。
それでは、イスラム教諸国の地理的特長は何でしょうか?・・・・・そうです。ほとんどが砂漠の国ということです。
砂漠に住む人々に広く信じられているイスラム教では、一人の男が4人までお嫁さんを持っていいことになっています。この制度・風習を指して、ヨーロッパ・アメリカや日本の人々は、女性を蔑視した野蛮な風習であると批判します。
私はよくパキスタンに出張に行きました。ここもイスラム教の国で、やはり砂漠と土漠といった不毛の地が大半をしめています。もっとも、インダス川周辺だけは農業地帯ですが。この広大な砂漠・土漠を見ていますと、これはとても人間の住む所ではないな、としみじみ感じます。
今のように文明が発達して車も冷房もあるからいいようなものの、昔はよく人が生きてこられたものだと、人類の知恵というものに感動します。
しかし、このような厳しい自然条件の中で、欧米や日本のようにたくさんの人々が生きていけたのでしょうか。そういうわけにはいきませんでした。わずかなオアシスを求めて長い間、部族間の争いが続きました。自分が、また、自分の部族が生きていく為には、相手を倒すしかなかったのではないでしょうか。欧米や日本のように気候のよい温帯に住んでいる人は、「争いなんかやめて、一つのオアシス・食料を分け合えばいいではないか」と必ず言うでしょう。勿論、理想はそうです。稲作地帯や温帯気候の地域では、食料を半部ずつにしても、痩せはするでしょうが、二人とも生きていけるでしょう。
しかし、この厳しい砂漠・土漠のなかでそんなことをすれば、二人とも死んでしまう、ということを長い経験の中で各々の部族とも知り尽くしていたのではないでしょうか。戦いが続くと男の数が減り、女性のほうが圧倒的に多くなります。また、こんな厳しい自然条件の下では、弱い子が生まれれば部族全体が弱体化してしまいます。それ故、強い子を残そうという知恵が出てきます。オットセイだったかアザラシは、雄、雌が各々50頭いても1対1で夫婦になるということはありません。雄の50頭が勝ち抜き戦をやり、ただ1頭勝ち残った雄が50頭の雌すべてと交尾をするのがその群れのおきてとなっています。これも強い子孫を残す為の一つの知恵でしょう。
このようなことを考えますと、一人の体力や経済力や生命力に優れた男が4人の妻を持つということは、一方では、戦いで女性のほうが圧倒的に多くなってしまったことによる、ある種の失業対策であり、また一方では、厳しい自然条件故、強い子孫を残していく為の知恵だったのではないだろうか、と思えてきます。
ここで私が言いたいことは、今、皆さんが当たり前と思っていること、常識と思っていることは、必ずしも古今東西すべてに通用するわけではないということです。特に、ある物事に価値判断を加える際には、自分は今、時間的・空間的にある一つの小さな点、つまり皆さんであれば、1989年7月という時間と、日本の大分という空間の小さな接点から物事を見ているということを、充分意識すべきです。
時間を過去や将来にずらしたり、空間をブラジルやアラビアにずらすと、現在の小さな接点でもっている価値観が通用しない場合が出てくるということを分かって戴きたいのです。日本の新聞やテレビ自体がこの認識をあまり持っておりませんので、このようなマスコミから情報を得る場合は、意識しすぎるぐらいこのことを意識してください。

3 気候条件と思想・宗教

さて、あと一つだけ私が見て、感じたことをお話したいと思います。
私は大学3年の時に1ヶ月程ヨーロッパを旅行しましたが、ここで一番強く感じたことはヨーロッパの緑の色が日本の緑の色と違うことでした。日本の色が深緑なのに対しヨーロッパのそれはうすい黄緑です。私は何故だろうと一生懸命考えました。そして、自分なりに出した結論は、日本の色は雑草の色で、ヨーロッパの色は牧草の色だということでした。
後で書物などを読んだりもして判ったことは、稲が育つ自然条件は雑草が生える自然条件と全く一緒だということです。つまり高温多湿でないと稲は育たないのです。従い、稲を育てる為にはどうしても雑草を取り除く作業が必要で、稲作農業には勤勉さが不可欠となります。一方、ヨーロッパでは、夏は温度が上がるものの湿度が足りず、草も「温度が上がり始めたぞ!」と思って芽を出しても水分が足りないので、それ以上伸びません。冬は降水量こそ増えるのですが温度が上がらない為、やはり芽を出すだけで、それ以上伸びません。しかし、この伸びない柔らかい芽や草は、牛や羊にとって絶好の牧草、食物になるのです。また、麦もヨーロッパの気候に適しています。
ところで、人口のことについて思いを馳せてみますと、稲作を中心とする地域は、人口が極めて多く、麦や牧畜地帯は人口が比較的少ないことが分かります。勿論、一般論として先進国は子供の数が少なく爆発的人口増加がないことも確かですが、どうもそれだけではなく、主食が何かということにも関係があるようです。
これも後で調べて判ったことですが、米は麦の3倍のカロリーがあるそうです。つまり、米を食べる民族は米だけ食べて生きていけますが、麦を食べる民族は麦だけではカロリーが足りず、牧畜つまり肉と組み合わせることによってはじめて生きていけるのです。

4 自分が主役になれ!

ここでは、自然環境や宗教などのことをお話しましたが、これは飽くまで私個人が勝手に感じ、考えたことであって、正しいのか正しくないのか全く分かりません。
これらのことは、学校の勉強でいえば、地理、歴史、生物、倫理社会の中に出てくる項目でしょうが、教科書に書いていることを覚える、試験の為に勉強するとなると、全く面白くありません。苦痛以外のなにものでもありません。しかし、自分の目で見て、自分で調べ、感じ、考えていくと、自分自身のストーリーや自分自身の学説が出来てきて、これ以上楽しいことはありません。試験の為だけにやる勉強ほどつまらないものはありません。人の考えたことを盲目的に覚えさせられるから面白くないのです。
人間、自分が主役になること程、面白いことはありません。教科書や先生の言うことを覚えることは基礎学力を身につけるという意味では重要ですが、それは飽くまで自分の参考ということにし、自分の興味・好奇心を広げ深める為、又、自分の考え方や価値観を確立する為に勉強する、という風に考えると、最高に楽しいものになります。
今、日本中でテレビゲームが盛んなようですが、あれは自分で目標を決めそれにチャレンジしているから面白いのであって、あれが学校の授業の中に取り入れられ、1学期までには三国誌の何々編まで出来なければダメとか、テレビゲームの中間試験や期末試験を行うことになると、とたんに白けてくると思います。

5 今こそ自分の価値観を確立する時!

以上、色々なことをお話してきましたが、世界は広く、そして未来・将来には夢があります。
自分が主役になってやれば面白いことが山程あります。その主役になる為には、しっかりした自分の考え、価値観を持たなければなりません。
そして今、皆さんが過ごしている中学、高校時代は、その考え方、価値観を確立していく時期です。仲間と、とことん議論し、また先生や親にも自分の意見、考え方をぶつけてみて下さい。今は色々な考え方、価値観に接し、色々な角度から物事を見ることが必要だと思います。
私は、教頭先生には、先程も言いましたように1年、3年の時に数学を教わりましたが残念ながらサインもコサインも、微分も積分もみーんなすっかり忘れてしまいました。しかし一生感謝してもしたりない二つのことを教わりました。
一つは、15や17歳だった私、というより全生徒の個性・人格を認めてくれたこと。
高校の時期というものは、確立こそしていませんが、やはり各人各様の考え方、価値観があります。それが個性・人格というものでしょう。それを一人一人認めてくれたお陰で、何も恐れることなく自分の個性を伸ばしていけたのではないかと思っています。
もう一つは、数学を通して、色々な角度から物を見ることを教わりました。数学の授業の時、ちょっと難しい問題になると、佐藤先生は必ず、「誰か、ほかの解き方した者はいないか?」「別解はないか?」と正政法ではない解き方をも要求しておりました。あまのじゃく故に正攻法の解き方では物足りず常に別解を追及していた私にとって、このことは大学入試の時にも直接役立ちましたし、今こうやって「自分の価値観を持ちなさい!」なーんて、えらそうにことをいう基礎になっています。

6 世の中の人は何とも言わば言え、我が為すことは我がのみぞ知る

最近、国際化ということが流行語のようになっていますが、あれは英語がペラレペラしゃべれるとか、外国に行ったことがあるとか、なんていうのは全く関係ありません。外国に行って「これはペンです」「これはコップです」とか、あまり内容のないことばかり言っていても外国の人に馬鹿にされるだけです。英語なんかたどたどしくていいから、自分の考え方・価値観をしっかりと相手に伝える、身振り手振りでも何でもいいからとにかく伝える。これは自分の考え方・価値観を持っていればなんとか伝わるものです。それが本当の国際人です。
私は英語が下手ですが、パキスタンに行けば向こうの政府高官と文明論を戦わせ(?)、自分では戦わせているつもりですが、また、アメリカのビジネスマンとは「ソ連のゴルバチョフ書記長についてどう思うか」などと平気でやっています。「お前、英語下手なくせに、よく恥かしもなくゴルバチョフ論なんてぶつけるなあ。その度胸だけは感心するよ」なんて、馬鹿にされたのか褒められたか分からないようなことを仲間から言われたりしています。でも相手は熱心に聞いてくれますし、相手も自分の考え方を一生懸命伝えようと、それも私が理解できる言葉を選んで、伝えようとしてくれます。
ですからみなさんは今、「自分の目で見て、自分の心で感じて、自分の頭で考える。そして自分の言葉で表現する」努力をしていれば、英語がしゃべれなくても、外国なんか行ったことがなくても、立派に国際人としての勉強をしていることになります。

また、今の日本は技術も最先端をいき、表面的には豊かになりました。これまでは、ヨーロッパやアメリカを手本として、それに追い付け追い越せでやってきたのですが、これからはもう、他国の模倣をするような時代ではありません。自分達が諸外国の手本となるような社会や国を創っていかなければなりません。その時に必要とされる人間は、単に成績がいいとか、〇〇大学を出たとかいうような人間ではありません。それは、自分の価値観・哲学をしっかりと持ち、自分が最も大切だと思ったことはブラジル人のように「勇気」をもって実行することのできる人間です。
世間や他人が何と言おうと、自分を信じ、責任感とやる気に裏付けされたプライドを持って事に当たる人間、そして何よりも、自分の夢を追い求める人間、そのような人間が今求められているのです。
これこそ「世の中の、人は何とも言わば言え、我が為すことは我のみぞ知る」という気概です。
この和歌は、近代日本の基礎を作り上げた坂本竜馬が皆さんと同じ16歳の時に作った歌です。
今の小学生や中学生が岩田学園に行きたいと思う時、いい大学に行けるから、というのではなく、「岩田学園のお兄さん達、先輩達は一人一人みんなしっかりとした考え方・価値観を持っている、自分もそこに行って、そういう人間になりたいんだ!」というような夢を与えてください。
結果的に、いいと言われている大学に行くのはいいでしょうが、盲目的にいい大学に行くことを目的とせず、将来どういうことをやりたいという自分なりの夢を抱いて自分の進路や受ける大学を決めて下さい。世間の価値観に従う必要はありません。「世の中の人は何とも言わば言え、我がなすことは我のみぞ知る」です。大分の坂本竜馬を目指して頑張って下さい。
御清聴ありがとうございました。

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