吉良州司の幸福論

2019年6月28日

吉良州司の子育て奮戦記 ~娘たちとの思い出~(広報誌15号)

 イケメンでもなく、イクメンでもなかった私なのですが、「男性がもっと積極的に子育て参加すべきだ」という議論がおこる中、本誌編集の企画会議でスタッフから「娘3人を育てたお父さんの『子育て奮戦記』を広報誌に書いてみては」との提案を受けました。「自分も子育てをしていた」などと言おうものなら、嫁さんから突き飛ばされてしまいます。しかし、「自分の都合がいい時だけ」「それも子どもの機嫌がいい時だけ」と言われることは承知の上、娘たちと一緒の時は幸せ感一杯の日々だったので、「娘たちとの思い出」的な内容を届けさせて戴きます。

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>>当記事は広報誌15号に掲載されています。

■長女の誕生

 会社派遣のブラジル留学中に日本で長女が誕生し 歳で父親になりました。それ以降、当時1分間1800円の電話代を気にしながらも、地球の裏側で、まだ見ぬ我が子の様子を妻から聞くことを何よりも楽しみにしていました。帰国後、6ヶ月になっていた愛らしい娘をはじめてこの腕にだっこした時の感動は今でも忘れません。どの親も同じでしょうが、どんな言葉でも表しようのないほどの愛しさです。それからは、可愛い娘たちの笑顔や寝顔をみることを最大の楽しみ、生きがいとする新たな人生が始まります。

■幼い娘たちとの週末

 娘たちが小さい頃は、会社では大事な仕事を任され、仕事が面白くて楽しくてしかたない時期でもありました。また、世界中を相手にするため海外店や関係先がある地域との時差もあり、平日は夜中の1時2時まで会社にいることが当たり前で、その日の内に家に帰りつければ「今日は早く帰れた」というような日々でした。そのため、父親として娘たちの相手ができるのは、土日だけです。平日は妻が一人で家事と子育てをしているので、自分なりに心がけていたことは、土曜午前、土曜午後、日曜午前、日曜午後の4つの枠のうち最低2枠は自分が娘たちと遊び、妻を一時的ではあっても子育てから解放することでした。こういうと義務のように聞こえるかもしれませんが、娘と一緒に時間を過ごせることが何よりの楽しみでしたし、その間、妻は買い物や美容院に行ったりできて一石二鳥でした。
 平日が激務なので、本当は土曜は昼まで寝ていたいのですが、次女が幼稚園に通っている頃は、土曜の午前中に眠い目をこすりながら迎えに行きます。自分を見つけた次女が「あっ、お父さんだ!今日はお父さんが迎えにきてくれた!」と嬉しそうな笑顔を向けてくれると眠気も1週間の疲れも吹っ飛んでいました。今日は幼稚園でどんなことが楽しかったかなど次女の話を聞きながら手をつないで一緒に歩いて帰ることが幸せでした。
 因みに長女は自然と動物たちで溢れる大分の「のだ山幼稚園」に通い、2年弱の間だったにもかかわらず、かわいらしい大分弁をしゃべるようになりました。

■公園探しの旅

 土日の定番は、娘が喜びそうな公園を探し回ることで、気に入った公園では娘たちが飽きるまで一緒に遊んでいました。上の娘二人が幼い頃過ごした大分では、ラクテンチ、水族館(海たまご)、ハーモニーランド、きっちょむランド、上津江のフィッシングパーク、県民の森をはじめ、大分市内の高尾山公園、青葉台公園、にじが丘公園などがお気に入りでした。

■得意は紙芝居

 お父さんとして、お決まりの「高い!高い!」や人間ジャングルジムもやりましたが、一番得意としていたことは、「紙芝居」です。「今日は、3匹のこぶただぞ!はじまり、はじまり!」とやると、娘たちから「パチパチパチパチ」と拍手の嵐。気分をよくしたお父さんは感情をたっぷり込めて、紙芝居の登場人物になりきるのでした。「おたまじゃくしの101ちゃん」「化けくらべ」「泣いた赤鬼」「3匹のこぶた」などが得意でもあり人気でもありました。「泣いた赤鬼」など、あまりに感情を込めて読み聞かせるので、最後の感動の場面では必ずお父さんが涙してしまうのです。今でも演説中に勝手に自分で感極まって涙してしまうことがありますが、どうも感情量が多く、感情移入してしまうようです。

■ニューヨーク便り

 長女が5年生、次女が3年生、三女が2歳の頃、家族5人でニューヨークに駐在することになりました。駐在5年半の間、娘たちの大好きな「大分のおじいちゃん、おばあちゃん」をはじめ、大分や東京の知人に「ニューヨーク便り」と題する書簡を送り続けました。米国での暮らしの様子や娘たちの成長ぶりを知らせるための便りです。 その中の、末娘の成長の様子に目を細めている記述の一部を紹介させて戴きます。

■目に入れても痛くない

 『三女がつい先日3歳になりました。我儘この上なく、かなり手を焼いていますが、3番目で断突のチビですから、泣いても笑っても可愛く、厳しくしようとは思いつつもどうしても甘くなってしまいます。何でも自分でやらないと気が済まず、一番困るのは何でもお姉ちゃんと一緒でないと気が済まないのです。この独立精神やよしですが、なにせ分不相応な要求や目的が多く、我が家のサダム・フセインになっています。そして、アメリカに来てから随分と言葉(日本語)が上手になってきました。何を話してもかわいらしい言葉、表現です。またまた親バカですが、今が一番可愛らしい時期で目に入れたいくらいです。大のお父さん好きでもあります(ここがポイントです)。というのも、妻は食事の支度やお姉ちゃん達の勉強をみていたりしていて忙しく、お姉ちゃん達は、自分で遊んでいたり、勉強をしていたりするときなど、最後の頼りはお父さんだけで、お父さんはまるで奴隷のように我儘な要求に応え続けています。そうでもしないと「お父さん好き」を維持できないのでしょう。
 この前の感謝祭の連休には子供達が夢にまで見ていたディズニーワールドに行ってきました。本物のミッキーマウスを見た三女など、もう夢心地で興奮しまくっていましたし、お姉ちゃんたちも大喜びでした。』
 『そして、絵が驚くほど上達しました。得意はアンパンマン、バイキンマン、ドキンちゃんの絵です。最近は手足が顔から出ず、ちゃんと身体から出るようになってきました。』

■自転車の特訓

 『この春に4才5ヶ月の吉良家最年少記録で三女が自転車に乗れるようになりました。補助車をつけては2才くらいから乗れていたのですが、この春特訓をしてついに補助車なしで乗れるようになりました。この“特訓”は、普通、子供が傷だらけになって泣出すことがあっても、この時ばかりは父親も(それがかわいい娘でも)鬼のような厳しさで臨み、“泣くな!立て!もう一度頑張れ!”という光景が思い浮かびます。長女の時はまさにこの通りでした。次女も5才の時に、やはり特訓をしましたが、次女は割と早く乗れるようになりました。下り坂を利用すれば足で漕ぐ力が弱くても何とか転がることがわかり、当時の家の前のゆるやかな下り坂を利用してバランスの取りかたを早く上達させたのがその理由でした。この経験から三女にも下り坂を利用させようと今の家の近くの坂のある場所で特訓したのです。ところがゆるやかな下り坂はわずか10メートルほどだけでその後はかなり急な坂となっているのです。従いお父さんは身体を張って急坂までいくことを阻止しなければなりません。ところが三女は下り坂でも鬼のように足を回転させて漕ぎまくりますから、それを阻止するお父さんは大変です。まるで闘牛士のようです。一緒に藪のなかに突っ込んだり、道路上を一回転したり、自転車の突進をまともに正面で受けたりしてそれはもう壮絶でした。御陰で、お父さんの身体は傷だらけとなりました。当人はヘルメットをかぶり、ひじやひざにもローラーブレードの時に使うプロテクターをしていますので怪我はまったくなし。何のことはない、特訓をして傷ついたのはお父さんだけでした。(お父さんの?)御陰で、今は得意げな顔をして気持ちよさそうに乗り回しています。因みに米国では自転車に乗るときはヘルメットの着用が義務付けられており、小さな子供が大きなヘルメットをかぶって乗っている光景は三女も含め愛らしい限りです。』

■幼子から卒業した寂しさ

 『7歳になった三女は4歳から5歳までナーサリーという現地の私立保育園に通い、6歳の途中までは町の正規の幼稚園に通っていましたが、昨年の8月からはニュージャージー日本人学校にピッカピッカの1年生として転入しました。すぐに溶け込み毎日学校に行くことが楽しくて楽しくて仕方ないようです。ここは本当にすばらしい学校で、よき先生、よき友達に恵まれ、子供達は休みを寂しがる程です。1年生の生徒数が 人ということもありますが、ひとりひとりに充分目が行き届き、生徒はお互いみんなが友達で、親も先生方を信頼し切っています。いずれこの学校をもっと広く紹介したいと思っています。
 子供が成長すると親としてはうれしい反面寂しくもなりますが、近頃自分のことを「さっちゃん」と言わず、「わたし」というようになりました。もう幼児とは完全におさらばかと思うと「最後の砦」だっただけに何だか寂しい気持ちです。』

■子供たちからもらう元気

 今も街を歩いていて赤ちゃんや幼ないこどもを見かけると声をかけたくなります。実際「かわいいですね!」とお母さんやお父さんに声をかけることがしょっちゅうあります。
 赤ちゃんや幼子の頃は特にそうですが、子供は本当に可愛らしいです。誰もがその笑顔や寝顔に癒されます。その子供たちのために「よーし、明日もがんばるぞ!」という気持ちにさせてくれます。大人たちを元気にしてくれます。
 でも、赤ちゃんも幼子も調子が悪い時にはお父さんでは全く役に立ちません。中には役に立っているお父さんもいるのでしょうが、少なくとも自分は役に立ちませんでした。お母さんでなければ調子がよくならないし、機嫌も直りませんでした。それだけに、せめて幼子の機嫌がいい時には少しでもお父さんが子供の相手をして、お母さんを一時的であれ子育てから解放することがお父さんの役割でもあり、それが幸せなのかもしれません。
 我が家も一番大変な日常の子育ては、文字通り妻におんぶにだっこでしたが、時には妻孝行しながら、娘たちと幸せな時間を過ごせた貴重な日々でした。

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