失われた10年とは何なのか

―古きよき時代の価値観喪失、戦後システムの制度疲労、国際化の進展―

昭和時代までは機能していた戦後システムが、どうして、「失われた10年」に変わってしまったのでしょうか。勤勉で真面目に働いてきた現在の高齢者世代の老後を何故快適なものにできないのでしょうか? 将来を託す子供達には「輝ける未来、夢にあふれた社会」を背負ってもらいたいのに「莫大な借金」を背負わせてしまうのは何故なのでしょうか?

それは精神的側面、即ち、家庭や学校における教育、及び社会全体が古きよき時代の価値観を喪失してしまっているという問題と、「権力は腐敗する」「組織・制度は出来た時点から老朽化が始まる」という言葉に象徴されるように、廃墟から経済大国に突き進む過程では見事に機能した諸制度が、今や制度疲労を迎えほとんど全く機能しなくなってしまった という戦後システムの制度疲労の問題との両面から考える必要があると思います。更にはその制度疲労を加速させている日本を取巻く急速な環境の変化、という問題も検証する必要があると思います。

以下では、戦後システムの疲労問題や官僚統制経済の行き詰まりなど、戦後のあり方に批判的な見解を示しますが、これは飽くまで、これからの時代には対応できなくなりつつあるということを示しているのみで、過去を一切否定するものではありません。

今、過疎問題がお荷物のように取り上げられることがありますが、後継ぎも都会に出ていってしまい、過疎の中で苦労されている地方農村の高齢者こそ戦後復興の立役者です。手塩にかけて育てた子供達を文句も言わずに都会に送りだしたのは、日焼けで真っ黒になりながら黙々と米、野菜、果物を育て、都会のサラリーマン達に供給し続けてくれたのは、そして高度成長を陰で支えていたのは、今の農村の高齢者達です。何とか恩返ししたいものです。
また、今でこそ、節操のないエリートの代名詞のように見られている官僚。しかし、昭和時代までの官僚が優秀で、エリートとしての責任感を持ち、祖国の繁栄を遂げずしては戦争で死んでいった仲間に合わせる顔がないとの思いから必死で日本の為に働いてくれたことも日本復興の大きな原動力だったと思います。

まず、昭和時代までの日本復興と繁栄を支えてくれた人々全てのみなさんに感謝したいと思います。

(1)戦後システムの制度疲労

まず、供給者側の立場にたった行政制度、箸の上げ下げまで口を出してしまう規制だらけの制度は、ある一定の所得水準を突破し、より多くの選択の自由を欲するようになった人々のニーズに応えられません。「過去、先例」にこだわり時代の変化に迅速に対応できない官僚、その官僚主導の計画経済が機能しなくなっています。

一方、嘗て「政治は三流、経済は一流」と豪語していた経済界はどうでしょうか?
民間企業も安定成長期に移行した後も飽くなき成長を追及し、官僚とは逆に「数字(結果)さえ出せば何をやってもよい」という風潮の経営に陥ってしまいました。利益追求が企業の本質であり、これを放棄する企業は企業としての資格がないことは言うまでもありません。
しかし、過去の成功体験を振りかざし、低成長期、安定成長期においても無謀な売上・利益の達成目標を掲げてしまったことは、結果として「目先の表面的利益確保、しかし実際はリスクの先送り」という架空の利益追求に繋がり、地道な生産、営業活動よりもマネー・ゲームに奔走させてしまった原因であり、結果的にバブルを招き、日本経済を崩壊させてしまいました。
その意味で、民間企業経営者達も弾劾されてしかるべきです。しかも、自分達で招いたバブル後の窮状を「三流の政治」に頼って解決せんとしています。その解決の為の原資は子孫への「つけ」でいいから、今を生き延びたい、今の業績水準を維持したいと訴えています。こんな無責任なことでいいのでしょうか。

また、労働者はどうでしょうか。
労働者もある時期までは、それこそ一所懸命に働き、その真面目な働きの代償として現在の給与水準や諸権利を勝ち取ったのだと理解しています。しかし、ある時期からは会社員、公務員を問わず「組織に属している」ということだけで、「組織の目的への貢献度」を抜きにして、自分の権利を主張し続けてきたことも事実だと思います。
現在、歴史や価値観の違う米国の経営システム、雇用慣行が理想化されてはいますが、公務員の身分保障、会社における終身雇用システム、労使協調という日本の雇用慣行は決して間違っているとは思いません(年功序列賃金には異議はありますが)。しかし、一日机に座っているだけだったり、また、創意工夫もなくただ、生産ラインの中で言われた通りにやっているだけで、努力を怠る人にまで毎年の賃金上昇を認める必要があるでしょうか?その身分を保障する必要があるのでしょうか?高度成長でパイ全体が拡大していたからこそ維持できた慣行やシステムは、低成長期、マイナス成長期の今は、それを維持するだけの余裕はありません。その運用方法の問題はあるでしょうが、「成果主義」を導入することは避けて通れないと思います。

成果主義を運用する際に一番問題になるのが、「誰が成果を評価するのか?」という問題です。この点で気になる傾向が最近の各組織における「人の評価システム」の問題です。

組織内における「出世」。官僚組織内部では「官僚組織自体への忠誠、貢献」が最大の評価を受け、「国民の声に如何に対処したか、公僕としての国民の利益追求」は二の次だったと言っても過言ではありません。外務省の機密費流用事件などは、この問題の最たる例証です。民間企業も、嘗ては「人格者であること」が経営トップになる為の絶対条件でしたが、最近は業績主義の過度の推進により、社会的使命感のない、いわゆる金儲けだけがうまい人間を高く評価して「出世」させてしまう為、結果として不祥事という社会的犯罪を醸成させてしまっています。

以前は、えらくなると急に雑誌のプレジデントなどや漢籍の解説本を読んだりして、中国故事などを俄仕込みする人もいましたが、たとえ、それが表面的なものであったとしても、人間や社会についての深い洞察力がなければ「上に立つ者」としての資格がないという自覚を持っていた証拠です。しかし、現在は横文字全盛、人格よりも資格やテクニックが優先される企業風土になりつつあります。業績向上の為のモラール(morale=士気)は旺盛になっても、社会的存在としてのモラル(moral=倫理観)が欠如しているのが現状ではないでしょうか。

(2)日本の内部及び日本を取り巻く環境の変化 ――ソ連消滅が意味するもの――

東西経済の融合・一体化(=Globalization)により、中国人労働者を典型に、良質の、よく働く、圧倒的低賃金労働者を世界の誰もが利用できるようになり、世界的な一物一価現象が進んでいます。企業論理からすると日本の労働者は中国の労働者と比較される運命にあります。そして今やそれがホワイト・カラーの領域(Computerのソフト開発など)にまで広がりつつあるのが現状です。

ソ連の崩壊は「共産主義や社会主義の崩壊」ではなく「官僚統制経済の破綻」と言えます。これは、ソ連のみならず、日本にも当てはまることです。奇しくもソ連が崩壊した1991年は日本のバブル経済の破綻開始時期とも重なります。ソ連もその誕生後の初期段階は西側諸国を凌ぐ程の経済発展を遂げていましたが、個人所得が一定のレベルにまで向上すると「規制の多い、消費者無視で生産者の視点のみで計画を立てる官僚統制経済」は機能しないことが立証されています。