吉良の主張

愛すべき我が父(広報誌18号)

先日父・吉良市雄の米寿を祝う食事会をしました。父は前菜から最後のデザートまで見事完食。88歳にして未だ食欲は衰えません。食事をしながら私たちが子どもの頃のこと、父の現職時代のエピソード、兄が選挙に出た時のことなど、昔話に花が咲きました。米寿の父と語らう中、兄吉良州司を2003年の大分県知事選挙出馬以来、近くで支える中でつくづく感じること、それは、今の兄をつくりあげたのは、父の背中と、父が信頼してやまない方々のご支援のお蔭だということです。

吉良 卓司

厳格を絵に描いたような父

兄州司は、著書「選挙革命」の「生い立ちと父母」の中で次のように記しています。
『父は厳格を絵に描いたような刑事畑の警察官で、「質実剛健」を三人の息子たちに教え込もうとしていました。小さい頃から、「言い訳をするな」「義を言うな」という父の口癖に加え、「喧嘩をするな。しかし、どうしても喧嘩をしなければならない時は必ず自分より強い相手とやれ。そして、絶対に負けるな」と言い聞かされて育ちました。子供心にいつも父の正義感を目の当たりにしたことが、今の私の価値観に繋がっているのかもしれません。精神だけでなく、身体も鍛えられました。いつも兄弟間でレスリングや柔道を強制され、小学校時代は、兄は400回、私は300回、弟も200回の腹筋運動をやらされました。
決して豊かではない家計の中で、男の子三人を育て大学まで行かせるために、母は肉や魚など栄養のあるものはほとんど子供に食べさせ、自分は漬物ばかり食べていました。自分たちが小さかった頃の母は、いつも夜中まで別府の竹細工や毛糸編みなどの内職をしていました。そんな母を見ていましたから、子供とはいえ「あれが欲しい、これが欲しい」とは決して言えませんでした。小さい頃、実の親兄弟と暮らせなかった母は、家族の絆を一番大事に考え、親兄弟が支えあって一緒に暮らせることを何よりも幸せに感じていました。』

父に恩返ししたいと集まる支援者

2003年の大分県知事選挙は、共産党を除く全政党、連合、県内全ての団体が相手方支援でしたので、吉良州司の戦いは自ずと家族とその知人、友人が中心にならざるをえませんでした。そんな中で、ほぼ互角の戦いができたのは、40年以上にわたり県内全域を網羅する大きなネットワークを築いていた父の力だったと思い知ることになります。「吉良さんに恩返しできるのはこの時ぐらいや」、「吉良さんの息子なら間違いない」などと、一度も会ったこともない人たちまでもが「吉良市雄の息子」である兄を応援してくれたのです。その中に、「お父さんには昔世話になった。その恩返しをさせてもらいたい」と申し出てくれる人たちがいました。父の警察官現職時代に本当に父に「世話になった」方々でした。

「鬼刑事」といわれた父の温情

なにゆえ「鬼」といわれた父に恩返しをしようとしてくれるのか、その理由は、後に兄が外務副大臣の時に、別府市の今日新聞(壇上陽一代表)が教えてくれることになります。

先人の教え
昭和三十年代から四十年代はじめの頃、当時、浜町にあった別府警察署に、ある「鬼刑事」がいた。暴力団担当で、石井組を解散に追い込んだ職人的な警察官の一人。捜査に当たっては情け容赦なく被疑者を追及、大分県警にこの人ありと謳われた。
しかし、刑が執行されると、受刑者の妻子を励ましたり、組を脱退したいという構成員に更生の道を歩ませたり、人生相談の役割も心温かく引き受けた。
自身は三人の男の子を授かるが、自分の子供の小学生時代、参観日や運動会にはめったに行った事がない。受刑者の子ども達の応援に出向いては、その家族を見守り続けた。
テレビや映画に出て来そうなこの人物は、大分市に在住の吉良市雄さん。次男はこのほど外務副大臣に就任した州司さん。暴力団絶滅にシノギを削る福岡県警の担当者に伝えたい話だ (陽)

家族を顧みることなく仕事に打ち込む父

父にとっては警察官が天職だったのでしょう。父は仕事の鬼で、早朝から夜中、時には徹夜で仕事をすることもしばしば。そのため家族は、家で寛いでいる父の姿を見ることはほとんどなく、たまに夜早く帰ってきたと思ったら、若い署員の人を連れてきて、ご飯を食べさせ、それから事件の捜索や張り込みに出かけるという日々でした。
また、吉良家の3兄弟とも運動が大得意で、運動会は年に一度の晴れ舞台だったのですが、父は家族愛に恵まれている息子たちより、世間的に厳しい目で見られている受刑者の家族を優先していたのです。更生された方々が「恩返し」をしてくれたのです。

運動は父の期待通りの3兄弟

晴れ舞台だった運動会や競技会、腹筋運動などで鍛えられた3兄弟にとっては大活躍の場でした。長兄は大分県陸上大会において中学2年時、3年時とも走り高跳びの優勝者。兄州司はその経歴からよく誤解されますが、小学校時代は腕白ガキ大将で、運動、特に球技が得意で、速球投手で鳴らしました。中学時代も野球部のレギュラーながら、陸上部助っ人として大分市・大分県の陸上大会に200m走、走高跳、800mリレーに出場、2位、3位を含め全て入賞。私も小学校時代の大分市・大分県の陸上大会で100m、走り高跳び、400mリレー(アンカー)、1,000mで優勝しています。中津市の南小学校マラソン大会では、6年の州司と2年の私が兄弟優勝を果たすなど、運動は父の期待通りの3兄弟でした。

父にまつわるエピソード

そんなかつての「鬼刑事」吉良市雄のエピソードの一端を紹介します。
1 いくら現職警察官時代とはいえ、東京の警察大学に行っていた時、新宿駅の線路を挟んだ隣のホームで喧嘩が始まったのを見て、急ぎ階段を降りて、登って、取り押さえた話。
2 豊後高田警察署署長の時に、交通課の署員が小学校の運動会の周りの車に「駐車禁止」を張り付けてまわり、署に戻り自慢げに話していたところ、「年に一度の家族の楽しみの場なのに、お前たちは何を考えているんだ、今すぐに剥がして謝ってこい」と指示した話。今の時代なら、確実に問題沙汰になるのでしょうが・・・
3 上皇陛下が皇太子殿下の時、大分に来県した際の警護責任者として、万が一の時、身を呈して殿下をお守りするのだから恥ずかしい格好ではいけないと、まっさらな白い下着を身につけ、家を出た話。まさに武士の精神。
4 兄州司の東京での結婚式の直前に誘拐事件が発生したため、急ぎ大分に戻り指揮を執る。その時息子州司に宛てた手紙には「明日の結婚式には参列できないかもしれない。俺のような警察官の父を持ったことを宿命と思ってくれ」と。ただ幸いにも被害者は無事保護され、事件も解決したため、再度上京して結婚式に参列した話。
5 トキハ別府店勤務時代、関東から流れてきた若者の窃盗犯グループを見かけ捕えようとした時、主犯格の20代の大男が父にむかって突進。父は寸前で身をかわしながら、次の瞬間相手の手首裏を押さえる伝家の宝刀「小手返し」でひっくり返して取り押さえた話。この時すでに70歳を過ぎていた父。
と武勇伝や逸話を挙げればきりがありません。

社会の縮図の中で生きてきた

本広報誌の文部科学委員会の議事録にも掲載されていますが、私たち家族は、母の夜なべの内職仕事も含め「社会の縮図」の中で過ごしてきました。エピソードの最大のものは、上述の今日新聞記事にも関係する次のような話です。

父は昭和40年から4年間別府警察署に勤務しましたが、観光地の当時の別府は表の顔も裏の顔も持ちあわせる複雑な街だったようです。
兄州司が小学校4年と5年のクラスメイトには、当時別府市を本拠として勢力を誇っていた暴力団石井組組長の息子、新ちゃんがいました。その石井組を壊滅する最前線の刑事が父でした。兄州司は小さい頃からどこにでも私を連れていたので、私を伴いよく新ちゃんの家(3層の天守閣があるような邸宅)に遊びに行っていました。豪華な家に沢山のおもちゃを持っている新ちゃんの家に行くのは楽しみで仕方ありませんでした。ただ当時、新ちゃんと遊び、喧嘩するのは、兄ひとりだけでした。長じて知ったことは、他の同級生の人たちは、親から「絶対に新ちゃんに近づくな」と厳命されていたようです。しかし、父は新ちゃんが暴力団組長の息子であることを兄にも私にも伝えなかったので、最後まで兄も私も知りませんでした。父に言わせると、「親は親、子は子だ」ということです。今から考えると、恐ろしい話ですが、これほどに腹の据わった父でした。

献身的に母を老々介護していた父

そんな父も、母が倒れるまでの72年間、「男子厨房に入らず」でしたが、母が倒れたのを機に料理を始めました。母の闘病生活は11年半に及びましたが、若い頃、家庭を母に任せっきりだったことを償うかのように、父が一人で母の世話をしました。母が亡くなった今、毎朝仏壇に向かい「おはよう」と口に出して呼びかけ、その日の予定や、子供や孫が来る日などは、その無事をお願いし、夜には無事のお礼を言う、そんな毎日です。また近所の人たちにもよくしてもらい、毎朝のラジオ体操や地区老人会の旅行、等々周囲の人たちに恵まれ楽しく暮らしています。

ひ孫全員を抱くまで元気でいてほしい

米寿のお祝いから4週間後、父ははじめてひ孫を抱っこし、満面の笑みを浮かべて嬉しそうでした。父は「東京オリンピックまでは生きんといかん」と常々言っていましたが、ひ孫と会って以来、孫全員の子どもを見るまでは、死ねないなあ」と次なる目標に向かって暮らしています。かつての鬼刑事も今では好々爺です。

親子なので面と向かってはなかなか言えませんが、尊敬する親父、愛すべき親父です。その父と、父とのご縁で兄吉良州司を温かく支援して戴いているみなさんに改めて感謝致します。

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