97年9月 ニューヨーク便りNo.4

1997年9月

日本もそろそろ秋の気配が感じられる頃だと思いますが、如何御過ごしでしょうか。

当地の9月は日本でいえば10月中旬や11月のような感じで、朝晩はひんやりとしています。ただ、何とか凌いではきましたが、6月、7、8月初旬までの暑さは(湿気による蒸暑さを除けば)日本以上に暑いくらいで、冷房設備のない我家は冷房付きの車に乗ってあてもなくドライブしたり、大した買物もないのに百貨店に行ったりして涼をとるという毎日だったようです(“ようです”と書いているお父さんは、幸い冷房のきいたオフィスで仕事をしているか、とことん暑くなれば、仕事と涼を兼ねて冬場の南半球に出張に出かけます。家族からは“ずるい”と非難を浴びますが“必要”に迫られての出張ですから仕方ありません)。

当地でも6、7月は日本の熱帯夜のように冷房がなければ暑くて眠れない夜がかなり多くありますが今年も冷房なしでなんとか耐え凌ぐことができました。というのも、6、7、8月は地下の寝室に日本の布団を敷いて家族5人でゴロ寝しているからです。暖かい空気は上にいくと理科で習いますが、我家は机上の理論だけでなく、実践、実感としてそのことが理解できる家になっており、2階の部屋は地下のそれより摂氏でいっても5ー7度は温度が高く、普段寝ている2階の寝室ではとても寝むれませんでした(家で仕事や勉強をする気にもほとんど起こりませんでした)。8月の中旬になって漸く朝晩涼しくなってきたので2階の自分達の寝室に復帰したところです。

さて、恒例により家族ひとりひとりの近況を報告させて戴きます。今回は小さい順です。

カナデイアンロッキーにて家族みんなで乗馬

カナデイアンロッキーにてさっちゃんの馬引くお父さん

さちこ(4才。現地の保育園)

まず第一に特筆すべきは、この春に4才5ヶ月の吉良家最年少記録で自転車に乗れるようになったことです。補助車をつけては2才くらいから乗れていたのですが、この春特訓をしてついに補助車なしで乗れるようになりました。この“特訓”は、普通、子供が傷だらけになって泣出すことがあっても、この時ばかりは父親も(それがかわいい娘でも)鬼のような厳しさで臨み、“泣くな!!立て!もう一度頑張れ!!”という光景が思い浮かびます。長女の綾子の時はまさにこの通りでした。次女のゆみこも5才の時に、やはり特訓をしましたが、ゆみこは割と早く(補助車をはずしてから2日程度で)乗れるようになりました。下り坂を利用すれば足で漕ぐ力が弱くても何とか転がることがわかり、当時の家の前のゆるやかな下り坂を利用してバランスの取りかたを早く上達させたのがその理由でした。この経験からさちこにも下り坂を利用させようと今の家の近くの坂のある場所で特訓したのです。ところがゆるやかな下り坂はわずか10メートルほどだけでその後はかなり急な坂となっているのです。従いお父さんは身体を張って急坂までいくことを阻止しなければなりません。ところがさちこは下り坂でも鬼のように足を回転させて漕ぎまくりますから、それを阻止するお父さんは大変です。まるで闘牛士のようです。一緒に藪のなかに突っ込んだり、道路上を一回転したり、自転車の突進をまともに正面で受けたりしてそれはもう壮絶でした。御陰で、身体は傷だらけとなりました。当人はヘルメットをかぶり、ひじやひざにもローラーブレードの時に使うプロテクターをしていますので怪我はまったくなし。何のことはない、特訓をして傷ついたのはお父さんだけでした。(お父さんの?)御陰で、今は得意げな顔をして気持ちよさそうに乗り回しています。
因みに米国では自転車に乗るときはヘルメットの着用が義務付けられており、小さな子供が大きなヘルメットをかぶって乗っている光景はさちこも含め愛らしい限りです。

第二には、最近、アルファベットで自分の名前や家族の名前をかけるようになり、おもちゃのコンピューターを相手に盛んに名前を入力したり、紙に書いたりしていることです。勿論日本人ですからひらがなも練習しているのですが、半分以上の文字は左右逆にかいてしまいます。“つ”は“く”の様だし、“と”は“う”の様です。よく自分で書いた文章を“お父さん、読んで見てごらん”と指示するのですが、半分以上が反対なのでまるでクイズの様で、なかなか本人が満足する“読み”ができません。そんな時はさっちゃんが、「これは“と”でしょ、これは“く”じゃない」といった具合に解説付きで読んでくれます。

第三の特記事項は、日本でも検討され始めた“飛び級”の試験に残念ながら不合格になったことです。さちこはこの9月でもまだ4才で正規の幼稚園に入る年齢に達していませんが我が儘であまりに自己主張が強いので(誰に似たかは誰にも解りません。世界7不思議のひとつとお父さんは言っているようです。でも8才、6才も年上のおねえちゃん達と互角に生きていこうと必死ですから、これは仕方のないことだと思っています)一刻も早く社会生活に馴染ませようと1年早く入園するチャンスをもらい、試験(といっても、みんなと遊んでいるところを専門家が観察して判断するだけですが)を受けたのですが、結果は1年早く入園するには“not mature=まだ十分成長しきれていない”というものでした。もう1年家庭と保育園で人間として成長する必要があるようです。お母さんは“(不合格という結果は)神様がもう少し、家でお母さんに甘えなさい とおっしゃっている、家事は勿論、おねえちゃん達の送り迎えや勉強をみたりで忙しくさちこに割く時間が少なくなりがちなので、これからはもう少し多く時間を割いて家で遊んだり、公園に連れていってあげよう”と気持ちを切り替えて最近は実際にそうしているようです。
4才にして人生最初の“受験”に失敗ですから、さちこのこの先の人生には多くの試練が待ち構えているようです。頑張れ!!さちこ!!

自宅近くのリッジウッドの公園内で三女が楽しそうに自転車で

ゆみこ(10才。現地の小学校の5年生)

ゆみこは今スポーツ、音楽、伝記などあらゆることに興味をもっておりまた実践しています。
スポーツに関しては冬場サッカーを楽しんでいることは前回お知らせした通りですが、この9月から早くもサッカーの練習、試合が始まりました。オフシーズンに練習していたわけでもないのですが、なんとなく自信をもってきたようで、去年より随分上手になっている様です。この前の試合でははじめてゴールを決め、みんなからおおきな祝福を受けました。本人も自信がついたようです。
また、この夏場はテニススクールやテニスキャンプに通ったり、近くのコートでは家族と一緒に楽しむなど今テニスに興じてもいます。ラケットもこれまで小さい子供用だったのですが、大人サイズの自分のものを買ってもらい大喜びで張り切っています。テニスもかなり上手になりました。更に、最近は米国では野球、アメリカンフットボールと並んで最も人気の高いバスケットボールのチームにも入りたいと意気込んでいます。
因みにアメリカの一軒家で子供がいる家には大抵、バスケットボールのゴール(ボードにゴールのバスケットが付いているもの)があり、平日は子供達同士、休日はお父さんと一緒に楽しんでいる光景をよく見かけます。
何にでもチャレンジしたがるゆみこはゴルフも大好きになりました。先日(当地でしかやれない贅沢ですが)家族みんなで泊りがけのゴルフを楽しんできました。ゆみこは(2日やったのですが)初日から、身体がよく回るきれいなスイングでボールをまっすぐに飛ばしていました。なかなかのものです。このスイングを見たお父さんは自分のスイングが恥ずかしくなり、心機一転、まともなスイングへの改造をはかり、最近漸く完成しました(といっても以前よりましになったというだけですが)。その御陰でこれまでのスランプが克服でき、機械部門のコンペではさっそく優勝出来ました。全てはゆみこのお陰です。

次は音楽。この9月からは小学校の最高学年の5年生になりましたが、アメリカの学校では5年生から自分の好きな楽器を習得することが必須となっており、ゆみこはフルートを選びました。さっそく楽器屋さんでレンタルし自分で練習し始めました。一般的には最初はなかなか巧く音を出せないと聞いていましたが、借りてきたその日から結構まともな音を出していました。お父さん、お母さんともフルートは全く吹けませんが、その音色が大好きなので、ゆみこが上手に演奏出来るようになっていい曲をきかせてもらうことが今から楽しみです。

また、伝記を読むことが大好きで、英語の苦手なお父さん、お母さんからみると、“よくまあ、これだけ早く英語の本が読めるものだ”と感心する程早く英語の伝記物をすらすらと読んでいます。この夏休みには合計11冊の本を読み、その感想文やまとめなどを書いていました。その伝記の人物を知っている場合はいいのですが、そうでない場合(その方が多い)その人物についての質問を受けるのがお父さん、お母さんにとって最も苦手なことのひとつとなっています。

お陰様でこの2年間でESLという英語の特別教室を終了することが出来、5年生からはアメリカの子供と全ての教科について全く同じ授業を受けることになりました。これからが正念場ですが、頑張り屋のゆみこですからきっと乗り切ってくれると信じています。案の定、親の不安をよそに本人は毎日の学校生活が楽しいようです。子供の順応力は大したものです。

あやこ(12才。現地の中学校2年生(日本でいえば中学1年))

あやこはこの3月に日本人学校のニュージャージー分校を卒業し(卒業式は一人一人がみな主役となるとても感動的なものでした)、4月からは1学期間日本人学校本校の中等部に通っていました(本校はニューヨークの北にあるコネチカット州にありますので、何とバスで1時間半もかかります)。しかし、色々悩み、考え また家族みんなで話し合った結果、この9月からは地元の中学校に通うことに決めました。コネチカットの本校は生徒の人数も多く、ニュージャージー分校の時のように少人数であるが故の自らが主役になる環境ではなく、受け身の授業が中心なので、それならばいっそ、生の英語を習得しながらアメリカの開放的な教育に触れさせたいと考えたからです。本人もかなり悩んだようですが、「チャレンジすることが最も大切」と常日頃から肝に銘じていることもあり、決心しました。まだ、緊張の連続のようですが、なんとか元気に通い始めました。
ゆみこがそうであったように、英語を母国語としない生徒用の特別教室ESLを特別に受けますが、数学、社会、美術、音楽、国語(英語)は皆と同じ授業を受けています。因みに、アメリカの中学校は日本の大学のように、数学はOO号教室、社会はOO号教室というように決まっており、生徒が教室を移動していきます。従って、決まった席もありません。また、一日の最初の時間は日本で言えば「学活」「ホームルーム」になっており、ここで世界やアメリカ国内の時事問題を始め、色々なテーマについてみんなで議論する場となっています。
子供の頃から、社会的問題に関心を持ち、色々な意見に耳を傾けたり、自分の意見を主張する場を、それも毎日設けることは素晴らしいことだと思います。
言葉の問題から、一般の授業、特に社会(“Social Study”)や国語(英語)にはかなり苦労しているようですが(出された宿題の意味が分からないことがある)、必死に頑張っています。あやこは英語に慣れていない、また、語彙がまだ少ないだけで言葉の仕組みは十分わかっていますから、きっと早く溶けこんでくれると信じています。事実、数学や地理などの試験では問題の意味と回答のスペルが分かれば中身は理解しているようで、早くも100点をとったりして本人も自信をつけています。そのせいか、転入初期は「ただ、教室に行っているだけ」だったのが、最近は「学校に通っている(学んでいる)」と感じられるようになってきたとのことです。やはり子供の順応力は大したものです。

中学校の音楽でも楽器を習得することが必須となっており、あやこはクラリネットを選びました。ゆみこと同じくさっそく楽器屋さんで借りてきて練習を始めました。お母さんは子供のころピアノを習っていましたが、お父さんなど、学校の音楽でやる縦笛、ハーモニカ、カスタネット(これは幼稚園でやったと思います)、それに中学生の頃流行ったフォークソングのギターをほんの少しかじった程度の楽器しか出来ませんので、自分の子供がやれフルートだの、やれクラリネットだのをやり始めるなどとは夢にも思っていませんでした。豊かになった時代やアメリカの教育にただただ感謝するばかりです。

ところで、あやこもテニスに興じ始めており、最近はちゃんとボールを返せるようになってきました。もう「テニスをやってます」と言っても恥ずかしくない程度です。あと1年もすると(さっちゃんには気の毒ですが)、お父さん、お母さん、あやこ、ゆみこの4人でダブルスを楽しめそうです。
お父さんが小さい頃はわんぱくの代名詞みたいな存在で土の上を這いずりまわって遊んでいましたが、スポーツと言えば野球しかありませんでした。御多分にもれず、小学校の時は野球ばかりやっており、また中学でも野球部に所属していました。中学校の野球部は運動神経がいい生徒が集まっていて(一部の方には申訳ない表現ですが)野球部でつくるバレーやバスケットチームの方がその部活動のチームより強いといったことも多々あり、「テニスなどはお嬢様がする御遊びで、スポーツには入らない」と思っていました。そのお父さんが今ではテニスで汗を流しているというのは何か気恥ずかしい気がします。でもたまたま、子供が女の子ばかりになりましたので、(昔は知りませんでしたが、かなり前からテニスは運動量の多い立派なスポーツだと認識するようになっています)テニスは我家にとって一番適したスポーツになっています。
ただ、男の子とキャッチボールをすることも一つの夢でしたので、最近は娘3人と庭でよくキャッチボールもやっています。お姉ちゃん達はかなり上手になってきましたが、さっちゃんの場合には、さっちゃんが構えているグラブのところにちゃんとボールが投げられるかというお父さんやお姉ちゃんの技術の問題になっています。

話しがかなり脱線してしまいましたが、野球、サッカー、テニス、バスケットとどんなスポーツでも近くの公園や広場、学校のグランド(どれも全て芝生のグランドです)で気軽にやれる当地の環境のお陰で家族みな、スポーツを楽しむことが出来ています(但、夏場に限ってです。冬は外に出られません)。

千代美

お母さん、こと千代美の特記事項の第一は、この夏のカナデイアンロッキーへの家族旅行が大成功に終わったことです。というのも、昨夏と同じく、お母さんがほとんど全ての計画を立てていたからです。レンタカーを借りて9泊の旅だったのですが、素晴らしい大自然をからだ一杯に浴びながら、野生動物に出会うことや、ハイキング、カヌー、乗馬、ラフテイングという川下りなどを思う存分楽しめた思い出に残る旅行になりました。
子供達はカヌーを3回、乗馬も2回出来て大喜びでした。また、この旅行の為にわざわざ買ったカメラの性能が非常によく、写真の腕と併せて見事な写真が出来上がり、このことが千代美を舞上がらせています。深夜までかかって丁寧に作り上げたこの旅行のアルバムは「これまでで一番の出来、My Favorite Album(一番好きなアルバム)」ということで、時々「本当にいい旅行だったし、写真の出来栄えも上出来」と再確認しながら満足げに一ベージずつめくって見ています。手前味噌ながら、本当にいい出来栄えです。お母さん! 御疲れ様でした!

第二は、あやこの現地校転入に伴い生活パターンが変わったことです。これまで、あやこ、さちこを車で送り迎えし、ゆみこをそのスクールバスで送り迎えするという生活でしたが、あやこもスクールバスで通うようになった為、時間的、物理的にはかなり、楽になってきました。しかし、一方で、あやこの精神的不安を少しでも和らげようとあれやこれや苦心していますし、また宿題も手伝わなければならないなど、千代美にかなりの負担がかかってきています。少し、時間が経てば解決される問題とは思いますが、最初は親子揃って乗越えなければならない大きな壁です。

一般的に、誉められて悪い気がする人はいませんが、人の長所を大袈裟に誉めて人に元気を与えようとするのがアメリカです。そのアメリカの中で千代美が最近よく喜ぶことは、よくあやこ、ゆみこと姉妹に間違えられる(??)ことです。これが三番目の特記事項です。
間違えてくれる相手はだいたいデパートの店員やレストランのウェイトレスなど「お金をたくさん使ってもらいたい」と思っている人達なので、先述したアメリカ特有のいわば御世辞だと思うのですが、どうも本人は半分は本当にそう思っていると信じきっているようで、かなりおめでたい性格と言えますが、それによって機嫌がよくなり、家族には好影響を与えますので、ありがたいことだと感謝しています。

千代美は渡米以来ずっと、アメリカの社会にもっと深く溶けこみたいと思ってはいましたが、3人の子供達の世話でとてもそれどころではありませんでした。しかし、あやこの現地校転入を境に、これから、どんどん溶けこもうと意気込んでいます。その証拠に英会話教室に通い始めたり、学校のボランテイア活動などにも積極的になってきました。駐在生活も2年半が過ぎ、早くも折り返し点にきましたので残り半分は現地に溶けこみながら、余裕を持った生活をしたいと念願しているようです。

州司

この8月はほとんどニューヨークにいましたが、それ以前、以降はやはり、中南米通いが続いています。月に2ー3回は出張しますので、マンハッタンよりも、ブエノスアイレスやリマやサンチアゴやキトの街の方がより馴染みがあります。
元々、先進国より発展途上国の方が好きだし、ビジネス上も興味があるので、この中南米通いは望むところですが南米を往復するには行き帰りとも夜行便しかなく、例えば月曜の夜ニューヨークを出発、マイアミ経由で機中泊し、翌朝(火曜日の朝)サンチアゴに到着、そのまま会社の事務所に向かい、駐在員と共にお客とのミーテイングに臨む。その日の夕方にはサンチアゴでは一泊もせずにそのままブエノスアイレスに飛び、そこで一泊、翌日(水曜日)またブエノスアイレスでミーテイングをこなして、その日の夜ニューコーク行きの直行便に乗り込んで機中泊し、翌朝(木曜日の朝)はニューヨークの事務所に出勤 というようなかなりハードな日程の出張になってしまいます。これを1ヶ月に1―2回、中米や南米北部(この場合は昼間のフライトがあります)行きを1―2回やっているような暮らしですから、まるで商社マンのようです。因みに、ニューヨークとブエノスアイレスでは11時間程のフライト時間ですから東京からニューヨークに行く12時間とほとんど変わりません。それ故最近はかなりきつく感じるようになってきました(まだ充分若いのですが)。

ところで、最近に限ったことではありませんが相変わらず日米の貿易摩擦(日本の対米輸出額増加)が問題視されています。この問題を論ずる時、金額的には摩擦を解消するには程遠いのですが、一点だけ強調しておきたいことがあります。それは、日商岩井など日本の商社は、日本を原点にした商社ではありますが、自分の現在の仕事に関する限り、ビジネスの大半は米国や欧州のプラントや機器を自分がファイナンス リスクを負って中南米に供給するという いわゆる三国間貿易をやっているということです。特に米国機器をエクアドル、ペルー、コロンビア、メキシコ、アルゼンチン、ブラジルなど(最近はかなり民営化、経済の自由化が進んで立派な国に生まれ変わりつつありますが)米国メーカーがリスクを取りたがらない国のお客向に日商岩井米国会社がリスクを取って輸出しています(米国メーカーには船積と同時にお金を全額払い、お客からは3―10年という長期に亘って回収している)。これなどまさに日本資本の会社が自分でリスクを取りながら米国の輸出促進をしている代表例です。金額こそ摩擦解消には及びませんがこれらの日本企業の努力を米国政府も認識してほしいものです。

今年の年賀の挨拶状では、ペルーの日本大使館人質事件が解決していなかった(親友や世話になっている先輩社員が人質のままだった)ことを書いた為、多くの方々が心配して下さり、見舞いのお手紙を頂戴致しました。ありがとうございました。お蔭様で皆無事に開放され、親友も先輩も再びリマの事務所に復帰し、まるで何事もなかったかのように元気で活躍しています。ただ、一日中警護が付くようになりました。
先日、リマに出張した際、大使館内での生々しい話を聞きましたが、日本のマスコミが書き立てていた“ストックホルム症候群”とかなんとかいう現象は全くの間違いです。ゲリラと人質になっていた人達の間には教育・教養面で圧倒的な差があり(特に人質になっていた方々はペルーを動かしているトップの方々ばかり)いざという時に銃口を自分達に向けることが出来ない程(表面上)仲良くなっておこうと計画的に必死で接近していたのであって、決して長いこと一緒にいるからといって自然と仲良くなっていたわけではありません。事実、この深謀遠慮が幸いし、あの突撃の時、ゲリラの一人が日本人の人質がいる部屋に入ってきて一度銃口を向けたのですが、仲良しの人質と目が合い、その人質が「出ていってくれ!」というと、そのまま出て行ったそうです。犠牲者も出ましたが奇跡とも言える救出作戦を決断、決行されたフジモリ大統領にはただただ敬服するばかりです。今の日本人が失ってしまった明治の日本がこの南米の貧しい国で生きているような気がします。
かれこれ2年程前になりますが、ペルーで取引のある会社の社長から(今回の事件で人質になっていた先輩と親友とともに)その自宅に招待された時の話です。その社長はスペイン系の白人ですが、南米はご存知の通り、貧富の差が激しく、ペルーに限らず、どの国も肌の色が薄ければ薄い程豊かで、濃ければ濃い程貧しいと言えます。その社長の言葉を再現します。「1990年にフジモリ大統領が選出された際、自分は勿論、主に白人で構成される経済界のトップのほとんどがこの国を出ようと思った。自分も本気でそう考えた。(文字も読めない)インデイオに選出された大統領に何が出来るのかと思ったものだ。だが、自分は間違っていた。その後の5年間を見てみろ。今まで誰も出来なかったこの国の改革、経済回復を強靭な意志の下、見事なまでに成し遂げているではないか。素晴らしい(エクセレントという言葉を使っていましたが)大統領だ。あの時、国を出て行こうと思っていた自分が恥ずかしくなる。これからはみんなで大統領を支えていきたい。」
御存知かと思いますが、それまでのペルー大統領は自分の妻子の映像をメデイアに流すことはありませんでした。ゲリラの標的になるからです。ところが、フジモリ大統領は自分もどこにでも出没しますし、妻子(奥さんとは離婚してしまいましたが)の映像も流しています。大統領就任の際、親兄弟を含めた家族に「いざ、(家族が)誘拐されたりしても、絶対にゲリラには屈しない。自分の家族であることで迷惑をかけるが理解してほしい」と告げたそうです。つまり、一族含め、死を覚悟の上で国を預かっているのです。死どころか落選をすら覚悟出来ずに、本音を吐けず、ただただ世論に迎合する日本の政治家に見習ってほしいものです。

いつもながら長くなってしまいましたが最後まで読んで戴いてありがとうございます。家族の近況や、当方が仕事を通じて見聞きしたもの の紹介文となっていますが、米国社会の一端や南米の国々の一部理解にお役立て戴ければ幸甚です。お元気で!!

1997年9月
吉良州司