デフレに思う

今、デフレ対策、デフレ退治という言葉が毎日のように新聞を賑わせていますが、日本経済新聞の特集記事の中に、「デフレの進行を多角的な視点から捉え、その原因を不良債権問題だけに求めず、より広い視野、即ちグローバリゼーションや技術革新などの視点から捉える必要性を『インフレの世紀がむしろ例外』だという点も披露しながら強調している」記事がありました。戦後、長いこと慣れてしまっていたインフレがむしろ例外で、歴史的にはデフレが主流だという内容には驚かされました。

「デフレ」というと「全てが悪」のように聞こえますが、諸物価が下がるという一面だけを捉えると、年金で生活する高齢者、賃金が毎年上昇しなくなった企業に勤める人々、一般の消費者にとってはむしろ歓迎すべきことです。

私は「デフレの進行が、日本が戦後システムという制度疲労に陥った古い社会・経済体質や価値観から脱却し、全く新しい政治、経済、社会システム、伝統を重んじつつ新時代に対応する新しい価値観をもたらす契機になリうる」いや「災い転じて福となる」ようにしなければならないと思っています。
勿論、短期的視点では国民全体が大きな痛みを伴う「産みの苦しみ」に耐える覚悟が必要でしょう。しかし、長期的視点に立った時、必ずやかけがえのない子孫の為になるという強い信念で、この厳しい状況を乗り切らなければならないと思っています。我々は、あの敗戦直後の廃墟の中から、驚異的な復興を成し遂げた世代の孫子です。やってやれないことはない、乗り切れないことはない と信じています。

1.グローバリゼション、技術革新の影響

「人も生き物」「経済も生き物」である以上、現実に生きている人や企業の偽らざる欲求(デフレ退治とインフレ期待)を政治家や経済界のリーダーが無視するわけにはいかないことは十分承知しています。
しかし、バブル期に獲得した経済的権益と期待利益水準(例えば、個人の給与水準や企業の売上・利益計画・目標)は、その崩壊により、実力以上のものであったことが判明してしまった今、それを実力相応に戻すことがまず先決です。その次にはバブル以前の「実力相応の水準」に戻しても、その実力で国際競争に勝てる水準なのかの検証が必要だと思っています。
ベルリンの壁崩壊の1989年、ソ連崩壊の1991年以前には東西の壁が厳然として存在し、現在のように中国が世界の工場として台頭しておりませんでしたので、バブル以前の日本経済は「まだ西側完結経済」の中での繁栄と言えただろうと思います(勿論、ソ連崩壊以前、ベルリンの壁崩壊以前にも東側経済を利用していたことは事実ですが)。
ところが今や、旧東側諸国、特に中国のメガコンペティション参入により、東西間を隔てていた経済格差、賃金格差、物価格差のダムが決壊し、西側の賃金水準や物価水準の水位が怒涛の如く、東側に流れ込んでいますので、この水位が同じになるまで、今後も賃金、物価の下落圧力が加わり続けるだろうと思います。また、技術革新、特にIT技術の飛躍的な進歩がその傾向に拍車をかけていることも間違いありません。

2.今あるもので十分。ものを大事に使おう という消費者心理

更に、日本だけでなく、先進国ではIT関連、環境関連、健康関連、知的好奇心関連商品・サービスを除いて「今すぐどうしてもほしいもの」がほとんどなくなってきています。今持っているものを「大事に使えばまだまだ使える」という風に技術革新(最新技術の商品が安く長く使える)の恩恵をうけています。上述した関連商品、サービスや、携帯電話、パーソナル・コンピューター、プラズマテレビなど、まだまだ技術革新に基づく新製品の新規需要は伸びるとは思いますが、驚異的な技術進歩の速さと東西経済融合によって「いいものがすぐに安くなる」ことを肌で知っている一般の人々は現時点では高価な商品に今すぐ大挙して押し寄せるようなことはしません。2−3年後には半値、八掛け以下になることが分かっていますから、それからでも遅くないと思っているでしょう。

3.総人口、生産年齢人口の減少

15歳~65歳の生産年齢人口は既に減少に転じており、2006年には総人口も減少に転じます。当然のことながら、一人一人の消費支出額が増えない限り、需要が増えるわけはありません。このような中で、国内でもメーカー数が多いのに加え、中国が世界の工場となる過程で、安くて高品質の製品が出回り、供給過剰がおきています。
そんな中で、毎年毎年、売上、利益増加を期待するのはトヨタ、キャノン、ソニーなど元々技術水準、生産性水準が高く、トップの強いリーダーシップが発揮されてきたほんの一部の企業、業界を除いて無理があります。勿論、リエンジニアリングにより増収・増益、100歩譲って減収・増益体質を追及することは必要ですし、それが経営者の腕の見せ所でもあり、実現も可能でしょう。しかし、少なくとも、ほとんどの企業の売上が毎年伸びるという状況にはないと思います。

4.1990年代は世界的なファイナンス時代、将来需要先食い時代

私自身、国際版のPFI(プライベート・ファイナンス・イニシアティヴ)手法であるインフラストラクチャー(社会基盤整備)のBOT/BOO(民間活力利用型)プロジェクトに従事しておりましたので、実感していますが、1990年代は、「小さな政府」志向の影響で、アジア、中南米、東欧諸国の政府資産、公社・公団が「民営化」という名目で売りに出され、また、民間活力利用、民営化の先端手法であるであるPFI/BOT/BOO手法がなければ、遠い先の将来にしか実行できなかったであろうインフラストラクチャー部門への投資が「分不相応」「実力以上」であるにも拘らず、90年代前半、半ばに集中投資されたことも事実です。この時期のファイナンス手法による将来需要の先食いも現在や近い将来の需要不足の一因だと思っています。アジア危機の原因の一端もここにあったでしょうし、アルゼンチンの経済、財政破綻もこの要素が強いと理解しています。

5.地価下落は、長期的視点に立った時、そんなに悪いことか?「今、持たざる者の視点」も必要では?

現在のデフレ退治論、インフレ期待論は既に土地を持っているもの、既に資産を持っているものからだけ見た「持てる者の視点」だと言えます。この先、それこそ世界中を巻き込んだ大競争時代の競争に晒されるこれからの若者が、新規に起業しようとする時、また、所属する企業の国際競争力をつけようとする時、下落したと言われるが、今でも世界水準からみてバカ高い土地が、その足枷になることは間違いありません。それでなくても、年金、医療、社会保障費等の公的負担、増加の一途を辿る国債の償還で増加するであろう租税負担などで、働く意欲を削がれかねない時代に、自分達の努力ではどうすることもできない土地の高さのせいで国際競争力がなくなるというのでは、「起業意欲」「勤労意欲」を持ち続けられるでしょうか?
異常中の異常であったバブル期の値段が未だに頭に残っているが故に「下落」と感じる人が多いようですが、他の先進国と比べると今でも何倍も高いと言われる土地、家屋、マンションを当たり前と思う感覚から脱する必要があるのではないでしょうか。米国と比較すると、多くの人は「米国は土地が広いから、日本とは事情が違う」と言いますが、通勤圏という視点から、ニューヨーク近郊と首都圏(ニューヨーク州南部やニュージャージー州東部に当たる)を比べると土地の広さは左程変わりません。市街化調整区域や諸々の規制撤廃によりいくらでも安く供給できる余地はあるはずです。
(注)執筆時点では、バカ高かった日本の土地も、国内の持たざる人々にとってはいまだに高いものですが、平成30年間に名目GDPが大きく増加した諸外国(特に先進国諸)から見ると相対的に安くなっている現実があることを付記しておきます。

6.「成功体験が活きない」

最近は、企業の有り方、企業統治を論ずる時、「もはや過去の成功体験は参考にならない、否、むしろ弊害ですらある」と言われますが、何故、これがマクロ経済になると「高度成長期時代」「インフレ時代」の成功体験が忘れられないのか疑問に思います。結局、企業も経済界も個人も「右肩上がりを再現しろ!」という大合唱ばかりです。上記1~4までの現象がどのくらい長く続くのか分かりませんが、当分の間はその傾向(調整過程)が続くのではないかと思われます。

7.デフレ時期に、土地を含む諸物価をとことん安く!

国東半島にある大分空港と大分市まで高速道路が開通して便利にはなりましたが、空港から大分市まで片道合計1600円の高速料金が取られる為、余程、時間がない人を除くと、みなさん一般道を利用しています。高速道路で60分、一般道で70-80分ですから、時間に余裕のある人はわざわざ往復3200円も払いません。友人に聞いても、「領収書がもらえる」即ち「会社のお金」の場合だけ高速道を利用するものの個人ではもったいなくて、絶対に利用しないということを聞きました。
これでは一体、何の為に建設したのか分からなくなってきます。それ程、日本の土地と土地に影響される諸物価はバカ高く、本来、みんなが気軽に利用できる社会基盤として、無料か低料金で提供すべき施設が、高い為に毛嫌いされる施設になってしまっています。
消費者の視点に立った場合、本来なら公共料金を含め諸物価をもっと下げる努力をすべきなのに、今でもそれを上げることに血相を変えています。
バブルの狂宴の責任を、自己責任として、それを謳歌した企業、個人に取らせようとせず、「人は生き物」「経済は生き物」と下手な理解を示して結局甘やかしているだけです。その甘やかしの結果が、「土地の高値維持」や「国債発行による子孫への更なる借金のつけ回し」賛成大合唱となっています。
子供や孫のこと、将来に亘る日本の国力を考えると、土地を含む物価を更に安くし、将来公的負担が増えても、また、収入が右肩上がりにならなかったとしても豊かな生活ができるようにすべきだし、これ以上の負担をかけない為にも借金を増やさない努力をすべきだと思います。

8.ワークシェアリングの導入により、雇用確保に全力を!

「隣のトトロ」に出てくる田園風景と人情、「北の国から」に出てくる自然に調和した生き方と人情、これらは昭和中期の古きよき時代の風景と人情です。まだ、まだみんな貧しかった時代ですが、夢と希望に溢れ、みんなが助け合って生きていました。父親は働きっぱなしで家にいない家庭も多かったとは思いますが、それでも生き生きとした父親の背中を見て子供達は育っていたと思います。親の苦労を目の当たりにした時代だと思います。
ところが、バブル時代の子供達が見たものは極端に言えば「苦労せずに儲けることを考える大人達」「バブル崩壊後は、その思惑がはずれて、うなだれる大人達」ではなかったのでしょうか。現在はリストラの時代であり、組織に所属しているだけで、組織の目的達成に貢献していない人が、必死に努力して組織に貢献している人と同じ水準の賃金をもらえる時代は終わったと思います。
成果主義の導入は自然の流れだと思います。しかし、一方ではこの危機的状況を乗り切る為、官民挙げて雇用確保に注力すべきだと思います。そして、ワークシェアリングの導入により、過度のリストラから社員を守る必要があると思います。時限立法的な、権利としては限定的な身分でもよいからワークシェアリングの手法を導入し、より多くの人が職に就ける道を模索すべきだと思います。但し、それにより、日本人がこれまであまり大事にしてこなかった貴重な「時間」を手に入れることが出来ます。父親も家庭に戻り、子供としっかり向き合う時間、余裕ができてきます。家族との語らいや団欒を取り戻すことができます。子供を山や川、公園に連れていくのに、そんなにお金はかかりません。夕食時に家族と語らうのにお金はかかりません。

9.終わりに  ――お金が全てという価値観を変えるチャンス――

21世紀の日本は、一方では、国力を維持、増強する為の教育、研究開発努力や企業・個人の活力を引き出す為の税制改革、行財政改革などを着実に実行するという現実対応が必要ですが、もう一方では、20世紀末にみんなが陥ってしまった「お金が全て」という価値観から抜け出し、「ほどほどのお金で楽しく豊かに暮らせる知恵」「足ることを知る知恵」を磨きながら、「お金がなくとも得られる幸せ」、「こころの豊かさ」を追求するという精神的革命、価値観革命が必要なのではないでしょうか。その意味において、現在進行中のデフレは神様が彷徨える日本民族に与えてくれた最大のチャンスではないかと思えてなりません。