吉良の主張

「吉良州司をつくりあげた商社時代の経験」と「若者に元気を与えたい。それが人生後半の目標」(前半)(広報誌14号)

今回は4年ぶりの広報誌でもあり、国会議員として 年が経過した吉良州司の政治家としての原点を改めて振り返るコーナーをつくろうと考えました。そして、「自分で書かせてしまうと、いつも通りの一方的な堅い文章になってしまう。だから吉良州司には書かせないで、インタビュー形式にして面白い話を引き出してもらおう」というのが吉良州司事務所スタッフの企画意図でした。
国会議員を取材するのは初めてというような、白紙の状態でインタビューできる方による吉良州司の原点を探る試みです。(文責:編集部)

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>>当記事は広報誌14号に掲載されています。

「代議士とか先生とかそういう呼び方は、ほんとやめてください。”吉良さん“でお願いしますね」。そんなご本人からの言葉で、和やかにインタビューが始まりました。政治家以前に、様々な経験を経てこられたからこその、多彩な顔を見せてくれる吉良さん。彼のルーツはどこにあるのでしょうか?

「総合商社」という選択。
英語の苦手な熱血商社マンの誕生

_では、まずは、大学時代からお伺いしてもいいですか。学生生活は、どういうものでしたか?
「冒険が大好きなので、一番力を入れたことは、山登りですね。山岳サークルに入って。3年の時はリーダーでした。2月の厳冬期を除く冬山もロッククライミングを楽しみました。山で学んだことは、その後の人生で大いに役に立ったと思います。少なくとも授業で教わったことよりも何倍も役に立ちました(笑)」

大学時代の山男生活。甲斐駒ヶ岳にて。

_山へ登っていない時は何をされていたんですか?
「そうですね。『自分は何をしたいか?しなければならないか?』人生について、日本の行く末について仲間と勉強し論議する日々を送りました。そして行き着いたのは“資源小国日本のために働きたい”ということです。『それを第一線で出来るのは悪名高き(笑)総合商社だ!』という結論に達したんです。

_それで、日商岩井に就職されるわけですが、日商岩井を選ばれたのはどういう理由ですか?
「日商岩井の社員というのは、自分の武勇伝を熱く語る人ばかりでしてね。豪快で個性的な先輩たちの話を聞いて『自分もこうなりたい』と思いました。内定者パーティまで出席した三井物産を断って日商岩井へ就職したことは周囲にも驚かれましたが(笑)、武勇伝になるようなチャレンジを許容してくれる社風が魅力的だったんです」

_実際に入社されて、いかがでしたか?
「商社マンの日常は聞きしに勝る激務でしたね。それでも夜になれば酒を酌み交わしました。よく働き、よく遊ぶ、がポリシーの同世代の仲間と『どうすれば面白い仕事が出来るか?』『自分達で何か新しいことは出来ないか?』そんな話を尽きることなくしていました」
_サラリーマンとしての 年間には、いくつかの節目があったとお聞きしましたが?
「まず、最初に配属されたのが人事部の採用担当です。入社5年目にブラジルへ留学し、帰国後は電力プロジェクト部でプラント営業を担当しました。 歳の頃に大分県庁へ約2年出向した後、再び電力プロジェクトに戻り、その後 代半ばから5年半ニューヨーク勤務です。大まかには3~4年ごとに、部署や境遇が変わるという流れでした」

_総合商社で海外の経験が豊富となると、英語は当たり前で現地の言葉も自由に操るかっこいいビジネスマンというイメージがありますが、いかがでしたか。
「それがですね。実際は英語が大の苦手でして、英語と悪戦苦闘する商社マンだったんです」

_へぇ。意外ですが、ほんとうですか?
「ブラジル留学から帰国後、電力プ
ロジェクト部で中東、南アジア、オセアニアを担当しました。担当した新規プロジェクトは、エリートが集まる豪州産業開発公社と日本の電機メーカーと一緒になって豪州のエンジニアリング会社を買収し、同国東海岸の鉄道に良質な電気を供給するというものでした。その契約交渉のため、 歳の私が東京本社の代表として、シドニー支店の現地スタッフと一緒に、1か月も続く会議に参加したんです」

_ 歳で本社の代表ですか。それはすごいですね。
「ところが、会議で話されている英語が全く理解できず、何を話しているのか、全然分からなかったんです。一番大きな金額を投資する会社の代表ですよ。その代表が会議で何を話しているか全くわからないんだから、目も当てられないですよね」

_どうして、そんなことになったんですか?
「発音が特異な豪州なまりも影響がないわけじゃありませんが、豪州なまり以前の基本的な英語力の問題なんです。
ところが、私が全く理解できていないことなどおかまいなしに、会議はどんどん進行していきます。そして困ったことに、いや当然のように『本社の代表、吉良の意見はどうだ』と迫られるんですからね。冷や汗どころか、完全な凍死状態です。その場はカッコ悪いですが『本社と相談させてほしい。その上で明日回答する』と言うしかないですよね。会議の後は支店に戻り、現地スタッフに頼んで、会議で一体何が話されていたかメモを作ってもらったんです。そこで初めて何が議論されたのか理解できました。必死でどう回答するかを考え、現地スタッフに翌日回答する内容を伝える、そんな毎日でした」

_失礼ながら苦し紛れの対応ですね。
「この辛い局面をどう乗り切るか。買収スキームが極めて複雑で、日本語でも理解が難しいような内容だったので、英文契約書草案がボロボロになるまで読み込みました。自分は誰よりも中味を理解しているという自信をつけ、中味勝負に徹しようと決めたんです。そして、現地スタッフを事実上通訳代わりにすることで、何とか交渉を乗り切り、契約、買収成立までこぎつけました」

_中身で勝負って思えるところが、度胸満点ですね。
「結果的には何とか乗り切れましたけど、途中では、あまりにも自分が情けなくて、本社の部長にファックスを送りました。『会社の代表としてシドニーに乗り込んできましたが、英語が全く理解できず、使い物になっていません』とね。帰国後、部長から「吉良から『英語がわからず使い物になっていない』というファックスを受け取った時は愉快だった。出張に送り出した部下からそんな面白い報告を受け取ったのは初めてだった。愉快、愉快」と喜んで(?)もらいました」

_部長も、また、豪快な方ですね。
「おおらかな社風、度量の大きな上司に恵まれていたんだと思います」

_では、本日のテーマである政治家としての原点について話を進めていきますが、3~4年ごとに節目があったという中で、吉良さんにとって特に大きなものは何だったんでしょうか?
「そうですね。海外に行くと、自分の背中に『日本』旗指物が立つ、つまり日本人としての自覚や誇りが大きくなるんです。海外で生活すると、日本に住んでいる時以上に日本のことを考えるし、自分の人生についてもあれこれと考えるようになるんです。単身で渡ったブラジル留学と家族と一緒だった5年半のニューヨーク勤務の経験は、とても大きなものでした」

「日本をなんとかしなければ」という想い

_海外勤務について、詳しくお話しいただけますか。まずは、ブラジルへの留学について。
「ブラジルの大学へ留学した時は『今しか出来ないことをやろう』と2万キロの冒険旅行に出ました。危ない目に遭いながらも南米南部の国々をあちこちバスで回り、見聞きしたことを綴って『ブラジルレポート』と称し、平松大分県知事(当時)宛てに送っていました。これを平松知事は県庁内で回覧してくれたそうで、その後大分県庁への出向を受け入れてもらえたのは、多くの県庁内の人が私のことを知っていてくれたお陰です」

_それは面白いですね。ブラジルへの留学が、大分での人脈を広げることにつながったんですね。
「初めて政治の道を考えたのがブラジル留学後でしたね。海外移住の経験は 代半ばでのブラジル留学と、 歳から 歳まで家族とともに暮らしたニューヨークですが、いずれも帰国すると『日本を何とかしなければいけない』という思いが強くなるんです。ブラジルから帰国した時、真っ先に考えたのは『なぜ日本人は暗いのか』ということでした。当時ブラジルの国民所得は日本の7分の1位だったはずですが『何がそんなに楽しいの?』と訊きたくなるほど、みんな底抜けに陽気なのです。一方、日本では朝の電車の中など世界の不幸を一人で背負っているような表情で、朝から疲れ果てた状態で通勤している。明るさ、陽気さ、活力が感じられません。これは国民気質の違いに加えて、社会のシステムや政治の問題が大きいのではないかと思いました。幼い子供たちの将来も気になり始め、 代後半の頃に一度政治の世界へ飛び込もうと思ったのですが、家庭の事情があって断念し、大分県庁に出向させてもらうことになりました」

_大分県庁出向の後、本社の電力営業をやってからニューヨークへ家族と一緒に赴任されたんですよね。家族が一緒だからこそ分かるアメリカと日本、一番大きな違いは何でしょうか?
「日本人は一所懸命働いているのに豊かさを感じられない。日本人ほどには働いていないアメリカ人の社会が、何故あんなに豊かなのか?ということです。土地の広さの違いは大きいけれど、やはり社会のシステムや政治が『頑張ったら報われ豊かになれる』ということを阻んでいるのではないかと。ニューヨーク近郊で家族と暮らしたからこそ分かる社会の豊かさがあるんです。一方、ニューヨークから頻繁に出張する中南米は、日本とは比べようもないくらいに貧しい国々です。“真の豊かさとは何か”を常に考えさせられる日々を過ごしました。そのことが『今度こそ政治の世界へ飛び込もう』という決意を抱かせる直接のきっかけだったと思います」

米国の豊かさを実感。街の公園で子ども達と一緒に。

政治家への道を決断させた5年半のアメリカ暮らし

_商社マンであれば、ニューヨーク勤務は憧れだったと思いますが、ご自宅は、ニューヨーク近郊のニュージャージー州だったんですね。具体的にどのような生活だったかを教えてもらえますか?
「赴任後半年は、会社を出るのが夜中の2時、3時という激務の毎日でした。世界の中心であるニューヨークには、膨大な量の情報が集まってきます。それら全てのメールを読むだけで夜中までかかってしまうのです。『このままでは家族との時間もとれず、自分自身も身体を壊してしまう。いや死んでしまう!』と本気で思い、生活パターンを一新しました。「自宅の一室に『コ』の字型の大きなデスクを入れてコンピューターやファックス、プリンターなどを揃え、仕事が出来る環境を作りました。そして会社では選択と集中の徹底で優先度の高い案件に専念し時間的余裕をつくりだしました」

_当時は、強行スケジュールで南米へ出張されることも多かったとか。
「たとえば月曜朝から会社で仕事をこなし、夜行便でチリへ飛びます。火曜の朝到着したその足で支店と客先を訪問して会合。夜には隣国アルゼンチンへ移動し、現地駐在員と打合せしながら夕食をとりホテルで一泊。水曜日はアルゼンチンの支店や客先を回って、夜ニューヨーク行きの夜行便に飛び乗ります。翌木曜日は空港から会社へ直行して朝から仕事。金曜日も普通に出勤して一週間が終ります。週末はできるだけ家族と過ごす。そんなハードだけど効率的な生活でした」

_ご自宅のあったリッジウッドは、どういう街だったんですか?
「街には大きな公園があって、十数キロに及ぶ遊歩道と自転車道が続いています。町役場には一度に4試合サッカーの試合ができる広大な芝の敷地があるんです。小学生の女子サッカーが盛んな街だったので、娘も地元のチームに入部しましてね。毎週末、家族で応援に行くのですが、私は試合に興奮すると日本語で『そこだ!いけぇ~!シュートだぁ~!』と叫びまくるものですから、アメリカ人のお母さんたちから名物男として親しまれていましたよ(笑)」

_そのお母さんたちには、日本の女子サッカーが強くなった理由が分かったでしょうね。
「日本には元気印のスパルタな父がいるからですね(笑)」

_3人の娘さんがいらっしゃって、吉良さんは親として保育園、幼稚園から小中高校とアメリカの学校システムを経験されたんですね。日本の教育との違いを、様々な場面で体感されたそうですが。
「日本では時に運動や音楽よりも数学、国語、理科といった科目を優先し学力向上を図りますが、米国では音楽などに多くの時間を使います。必修であるバンドの楽器は、長女がクラリネット、次女はフルートを選んでいました。オーケストラで演奏するために練習を重ねますが、みんな小学生から始めるので高校3年生にもなると驚くほど上達します。高校にはコンサートホールがあって、年に一度コンサートを開催していました。高校の上級チームの演奏ともなると、それは見事な出来映えです。親たちもブロードウェイで観劇するようなドレスアップをして夫婦そろって高校のコンサート会場へ出掛けるのです。そして素晴らしい演奏には、総立ちのスタンディングオベーション!」

_すばらしい教育環境ですね。
「このような場面に出くわすと米国社会の豊かさ、特に“こころの豊かさ”を実感します。『住んでみないとその豊かさはわからない』と米国駐在員の先輩に聞いていましたが、まさにその通り。家族と米国東海岸で暮らした5年半は『豊かさとは何か』を考え『豊かさを実感した』貴重な体験でした」

フィクションのような体験ばかりの冒険ビジネスマン時代

_冒険好きの吉良さんの本領発揮というエピソードを教えていただけますか。出張先の中南米では、冒険映画のような体験をされたそうですね。
「出張で訪れるコロンビアは、自国やペルーで栽培した麻薬を米国やメキシコに密輸して莫大な利益を稼ぎ出す麻薬組織が強い国で、内外の有力者や一般人を誘拐し身代金を得たり殺害を繰り返していました。日本人も誘拐、殺害ともに犠牲になっています。
当時、麻薬組織が出没する地域に、建設機械を買ってくれた石炭採掘会社があり、訪問する時は自分が乗る車の前後をコロンビア国軍に護衛してもらいました。軍人に囲まれて車に揺られていると『もしこの護衛がゲリラに買収されていたら?』『護衛もろともゲリラに襲われたら?』という不安が頭をよぎります。どこかで撃たれるか、何ヶ月も人質にされるかもしれない。『死にたくない!』と思いながらの出張でしたが、お蔭様で怖い思いをしただけで済みました(笑)」

_ご家族が聞かれたら、心配でたまらなかったと思いますが、他にも危ない目に遭われたことが?
「たくさんありますよ。アルゼンチンの建設会社へに行った時は、居留守を使われたため強引に相手事務所の部屋へ入ると『不法侵入だ!警察に連絡して逮捕してもらう』と言われ、その後大変な思いをさせられました。拘置所へ入れられたら出られない可能性が高い。『警察に逮捕される前に脱出しなければと必死で逃げました。空港はもう警察の手が回っているだろうから、4時間かけてラプラタ川をフェリーで渡ればウルグアイに脱出できる、そこからニューヨークへ戻るのが一番確実だ。しかし警察が素早く動き始めているとすれば、空港も港も同じ。考え直して、より近いブエノスアイレス空港へ向かいました。
出国審査の直前、会社の同僚に『もし僕が逮捕されたら、すぐに東京本社とニューヨーク本社、日本国大使館に連絡して即座に釈放してもらうよう万全の手を尽くしてほしい』と頼みました。そして、『家族には心配するなと伝えてほしい』と・・・それまで何百回と出国時のパスポート提示をしましたが、あの時ほど緊張したことはありません。心臓が口から飛び出しそうだった!幸いニューヨーク行きの飛行機に乗ることができましたが、離陸するまでは生きた心地がしませんでした。ほかにもアクション映画さながらの経験は数多くあります。“冒険ビジネスマン”が望みだったとはいえ、ここまでの体験をするとは思ってもいませんでしたね(笑)

_昨年は日本人がテロの犠牲となり、 月にはパリで多くの人が巻き込まれるなど、世界各地でテロ事件が起こった年でしたが、海外を飛び回る吉良さん自身も、テロ事件にニアミスした経験が何度もあったそうですね。
「1986年9月5日、私はパキスタンの首都イスラマバードから商都カラチへ飛行機で向かう予定でした。しかし予約していた便が急遽飛ばなくなり、次の便から欠航が相次ぎ、結局その日は全便キャンセル。仕方なくホテルへ引き返し、テレビをつけると、目的地だったカラチの空港が映っていました。パンアメリカン航空 便がテロ組織にハイジャックされ、同国特殊部隊と銃撃戦、乗客・乗員 人が死亡。全便キャンセルの理由はこれだったのです。翌日カラチ空港に到着すると、銃撃戦の跡も生々しいパンアメリカン航空の機体がそのまま残されていました」

_あの9. の時は、どこにいらしたんですか?
「2001年9月 日の直前にニューヨークに1泊後サンパウロに出張していて、9月 日にニューヨークへ戻る予定でした。しかしテロ後4日間は飛行機が一切飛ばず、会社からも米国には入るなとの命令が出たので、更に2週間サンパウロに留まりました。帰路を悩んだ末、結局、危険が残ることは承知の上でエールフランスでパリ経由で帰国しました。そんな事情から9・ 同時多発テロの生々しい映像を、時差がほとんどないサンパウロで見ていたのです。衝撃だったのは、ブラジルで最初に報じられた『JapaneseRed Army(日本赤軍)の犯行』いう誤報。おそらく神風特攻隊を連想させたのでしょう。その報道を見た時は愕然として声を失い『これで日本も終わりだ。もう米国で日本人が仕事をしたり、住んだりすることはできなくなる』と悲嘆にくれたのを覚えています」

_身内の方や親友が、直接テロ事件に遭ったこともあると伺いましたが?
「『9・ 』で崩壊した世界貿易センタービルはあまりにも有名ですが、実は同じビルが1993年にもテロの標的になっていたのです。1993年2月 日に同ビルの地下駐車場で爆弾が爆発し6人が死亡し、邦人4人を含む1000人以上が負傷しました。アルカイダの犯行と言われているテロ事件です。不幸中の幸いで怪我はなかったのですが、そのビルに銀行の駐在員だった義理の兄が勤務していました。そして、1996年 月 日ペルーのテロ組織トゥパク・アマル革命運動(MRTA)が、日本国大使公邸で行われていた天皇誕生日レセプションの場を襲撃、立て篭った事件。私は頻繁にペルーに出張していましたが、約600人の人質の中に会社の親しい先輩と大学以来の親友がいたのです」

_あの事件は、日本人がたくさん人質になったことで印象に残っています。
「親友の奥さんも人質になっていましたが翌日解放され、親友も 日間の人質生活のあと解放されました。しかし先輩は翌年4月 日にペルー特殊部隊が突入するまで人質に。私は毎日心配で心配で。最後まで人質となっていた 人のうち邦人 人を含む 人が救出(人質のペルー人1人が死亡)され、先輩が軽い怪我だけで解放された時は、どれほど喜んだことか! 先輩からは長きに亘る人質生活や特殊部隊が突撃して解放された日の生々しい話を聴かせてもらいました」

_吉良さんには、とても身近な事件だったんですね。
「直接的なニアミスもありますよ。
人質解放直後にペルーに出張した時です。当時日商岩井ペルー法人の社長が乗る車は窓や車体など至近距離での銃弾に耐えられるだけでなく、車体の下に一定程度までの爆弾が爆発しても大丈夫な完全防弾仕様車でした。しかし、フジモリ大統領のテロ掃討作戦の結果、かなり治安がよくなっており、社長以外の駐在員は防弾仕様でない普通車に乗っていました。その普通車で走行していたら、反対車線の道路脇で警官と金品目当てと思われる犯行グループとの間で銃撃戦となっており、流れ弾が当たらないようにと祈りながらその場を通り過ぎた経験もあります」

_まさに、銃声を聞きながら通過していったんですね。怖くなかったですか?
「もちろん、怖かったんですが。その時感激したのは、ペルー人警備員のプロ意識の高さでした。大使公邸人質事件以降、ペルー法人社長以外の駐在員(親友)にも警備員がつくようになりました。銃撃戦と見るや否や、私たちに頭を下げるよう指示します。でも防弾仕様ではないので流れ弾が飛んできたら貫通してしまいます。警備員は銃撃戦の様子を冷静に見ながらその場を通り過ぎるまで、私たちを見守っていてくれていたのです。警備員とはいえ、間近で銃撃戦があれば、誰しも怖いはずなのですが、さすがプロだと思いました。当の私も怖いもの見たさに、頭は下げつつもそっと窓から銃撃戦の様子を見ていましたけどね」
_吉良さんは、度胸がいいだけでなく、運もとてもいい方なんですね。
「執念深い性格でもあるんですよ(笑)。この先輩・親友と私は、大使公邸人質事件の前から、鉄鉱石鉱山向けの建設機械売り込み商談を続けていたんです。15億円ほどの契約は大変厳しい交渉を強いられましたが、何が何でも事件からちょうど1年後の12月17日に締結するんだと誓って交渉した結果、みごとにその日に契約締結できました」

_世界的なテロの事件を逆手に取って目標の期日までに契約を成立させる、そういう行動力っていうか、スケールの大きさはすごいなぁって思いますね。
「昨年10月にペルーに出張し、あんな事件に遭遇してもペルーが大好きで、今もペルーにいる先輩、親友と会ってきました。昔話にも花を咲かせ、お互いの元気を喜び合いました」

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