「吉良州司をつくりあげた商社時代の経験」と 「若者に元気を与えたい。それが人生後半の目標」(後半)(広報誌14号)
世界情勢の激変に直結するビジネス経験
それが吉良州司のルーツ
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_テロ以外にも、世界的な事件や経済事情に仕事が影響を受けることもたくさんあったんじゃないですか?
「確かに、世界史的な政治的・経済的な動きによって、その時進めている仕事に大きな影響が出ることも多々ありました。経済的事象の影響は1994・ 年のメキシコ・テキーラ・ショック、 年のアジア金融危機、 年のロシア金融危機など枚挙にいとまがありません。政治的事件でもっとも印象に残っている事例が、ニューヨーク駐在時に手がけたパキスタンのプロジェクトです。世界史的事件の影響をもろに受けた経験です。」
_パキスタンですか。どんな仕事だったのですか?
「1996年からパキスタン向けの電力事業プロジェクト(約185億円)をニューヨークから推進していました。米国テキサス州に本拠をおくCoastalというエネルギー会社を筆頭投資者且つ事業運営者とし、米国オハイオ州に本拠をおくBabcock & Wilcox(B&W)という総合エンジニアリング会社を元請建設事業者、東芝を電力機器供給者とするプロジェクトで、資金は %を米国輸出入銀行、 %を日商岩井が融資することになっていました」
_政府機関の米国輸出入銀行が融資するということは、米国政府が後押しするプロジェクトだということですよね。
「そうです。プロジェクトは建設も順調に進んでいたのですが大変な事件が起こります。1998年にインドでバジパイ政権が成立します。その頃、パキスタンが弾道ミサイルの発射実験を行うなど、インド・パキスタン間の緊張が高まっていたのですが、パキスタンへの対抗からインドが核実験を行うのです。そして、このインドの核実験に対抗して今度はパキスタンが核実験を行ったのです。米国政府は怒りました。そして、このプロジェクトへの支援を打ち切る、つまり米国輸出入銀行の融資を撤回すると言い出したのです」
_それではプロジェクトは成り立ちませんね。
「私は、Coastal、B&Wとともにワシントンの米国輸出入銀行に融資継続交渉を行いました。そして、融資の完全打ち切りという最悪の結果は避けることができました。ところが、喜びもつかの間、その後パキスタン陸軍参謀総長だったムシャラフ(後の大統領)が1999年 月にクーデターを敢行したのです。これで完全にアウトです。米国輸出入銀行融資は完全に打ち切られ、採算は極度に悪化することになりました」
_クーデターを起こした国には、融資できないってことですね。
「そうなんです、けどね。ムシャラフ大統領は人物的には非常に立派な方で、当時の政権の腐敗があまりにひどかったのでクーデターを起こしたのです。武力による政権奪取が正当化されるとは決して思いませんが、パキスタンのビジネスに携わる中で、当時の政権の腐敗ぶりを目の当たりにしていただけに、民主的に選ばれた政権なら腐敗政権であっても善、軍事政権は即座に悪という米国政府の対応については複雑な気持ちでした」
_ムシャラフ大統領の人物像なんて、日本ではほとんど報道されませんものね。
「ところがね。皮肉なことに、米国とパキスタンの関係は、2001年の9・ 後に改善するんです。アフガニスタンのタリバン政権を壊滅させるために隣国パキスタンの協力が必要になったからです」
_商社の経験。特に海外勤務で、本当に信じられないような様々な経験をされてきたことが、政治家吉良州司さんを作ってきたということでしょうか。
「そうですね。商社時代の経験が自分の政治家としての思考や信念に大きな影響を与えていることは間違いありません。一番大きく影響されたのは、実は『物事に取組む姿勢』なんです。計画を提案し、それに対して『無理です、対応できません』などと言われてからが本当のスタートだ、という前向き思考、執念、never give up(決して諦めない)の精神なんです。」
_経歴を拝見しますと、民主党の内閣で、外務大臣政務官や副大臣を歴任されていますよね。今まで聞いてきた、商社マンの経験がずいぶんと役に立ったんじゃないですか。
「世界の政治、経済、外交、ビジネスは密接に関係しているので、商社時代の経験は経済外交、アジア・中南米外交をはじめ大いに役立ったと思います。インフラ海外輸出を積極的に推進しましたが、私が外務省職員と在外公館向けに『インフラ・プロジェクト』の教科書をつくり、外務省を挙げて日の丸プロジェクト売込みに役立ててもらいました。外務省職員の苦労、特に発展途上国での苦労もわかりますしね。また、南米の大統領や外務大臣、それに駐日大使などと会った際には、私のその国での経験話で盛り上がります」
_そうでしたか。
「チリ訪問の際、当時のモレノ外相は『吉良はチリのあちこちに行っていて、自分よりもチリのことをよく知っているから』などと親しみを込めてくれました」
「チリのピニェラ大統領の就任式には日本政府を代表して列席しましたが、ちょうどその時に大地震直後の大きな余震が発生したんです。そのピニェラ大統領が来日した時、野田佳彦総理(当時)との夕食会で開口一番、『自分の就任式に参列してくれた吉良は自分たちの友人であり、真のサムライだ。就任式の時に大きな地震があって多くの参列者は会場から逃げ出したが、吉良だけは微動だにせずに堂々としていた』と言ってくれました」
「ブラジルのアモリン外相とお会いした時『お帰り、ブラジルへ』と親しみを表してくれました。『久しぶりのブラジルはどうですか』と訊かれ、私は次のように答えました。『ブラジルに留学する時、回りからは何故あんな莫大な借金国に行くんだと反対されました。でも私は、ブラジルは今こそ苦しんでいるが将来必ず発展する、それだけ潜在力溢れる国なんだ、と説得しました。
今、久しぶりに戻って大好きなブラジルの発展ぶりを見ると我がことのように嬉しい』と。外相との会談は 分予定が1時間半に及びました」
_このインタビューの始めのほうで、吉良さんが、「海外に行くと、自分の背中に「日本」という旗指物が立
つ」とおっしゃっていましたけど、今の話を聞いていて、外国の首脳の方と会談される吉良さんの背中には、ありありと「日本」の旗指物が見えました。なんだか、わくわく楽しくなってきました。
仕事の流儀
現実を動かすための吉良流方法論
_話題は、がらりと変わりまして。どうしてもお伺いしたかったことがあるんです。時間はずいぶん遡ってしまいますが、男女雇用均等法が施行される以前から、吉良さんは女性活躍のフィールドづくりに、熱心に取り組まれていたそうですね。
「はい。男女雇用均等法が施行される前、『女性は男性総合職のアシスタント』という位置付けで、女性の活躍の場は限られたものでした。商社ですから危ない地域への赴任などハー
ドルがあったのも確かですが、総合
職で働きたいと思う女子学生に対する門前払いのような人事システムに風穴を開けたいと思っていました。女子総合職採用に難色を示す人事本部幹部に『短大卒事務職待遇での採用で構わないので、将来の総合職候補として試しに採用させてほしい』と直訴しました。一方、優秀と見込んだ女子学生たちと何度も話し『事務職採用であるが、女性も総合職でやる力が充分にあるということを示してほしい。君たちには苦労をかけるが、後輩の女性総合職への道を切り拓いてくれないか』とチャレンジを促しました」
_それが吉良さんの入社3年目なんですよね。
「ええ、入社3年目の私に、女子採用を含む新人採用が任されていたんです」
_うまくいくと思っていましたか?
「何としても実現したいと思っていました。商社の取引業種や職種は多種多様で、財務経理人事など管理部門やアパレル関係もあります。女性が総合職として活躍できる可能性は高いと思ったのです。結果 名を採用し、彼女たちは上層部を納得させるだけの成果を上げてくれました。」
_現実の壁を打ち破るための秘策はなんだったんでしょう?
「大きなことを提案する時に重要なのは、相手の立場で物事を見ることです。相手は何が望みなのか。関わる人が許容できるような物事の動かし方を探り本音でぶつかっていきます。女性採用の件では、もし最初から総合職採用にこだわっていたら、実現は難しかったと思います。『事務職待遇』のまま総合職候補を採用する、という人事幹部陣が受け入れやすい内容からスタートしたから成功したのです。関わる人が許容できる範囲で一歩ずつ進めていけば、大きな物事を変えることも不可能ではないと思います。お陰様でその後彼女らはすぐに4年生女子採用待遇へと改善され、女性の総合職採用もはじまりました。」
_彼女らが、吉良さんの期待に応えてくれたということですね。
「嬉しかったですね。今でも交流しているんですよ。私が、これからの人生をかけてやっていきたいことは、まさに、次世代の若者たちが元気になる、成長する、そんな機会をつくっていくことなんです」
“何度でも挑戦できる社会創り”将来世代への人的投資を
_最後に、政治家としてのライフワークを教えていただけますか?
「一言でいえば、若者が夢に向かってチャレンジできる社会創りに貢献することです。今後は若者、子供たち将来世代のためのインフラ投資に、全力を注ぎたいと考えています。これからのインフラ投資とは人の『頭』と『心』に投資することです。人口減少が進む日本を支えてくれるこれからの世代には、思いっきり楽しい人生を送ってもらいたいし、日本を力強く支えてもらいたい。そのためには彼ら彼女らに、国を挙げて投資しなければいけないと思うのです」
_将来世代への投資というのは、具体的には、どういうことをイメージすればいいですか?
「人間力を高める教育、職業的専門性を身につけてもらう教育の充実です。日本では働く場を持つことを『就職』と言いますが、実際の雇用環境は『就職』ではなく、一生ひとつの会社で働く終身雇用的『就社』だったと思うのです。会社に入ってから鍛えられ、何年もひとつの会社で働き、部署や職種が変わることも当たり前です。米国などでは職業的専門性を売り込み、転職を繰り返しながらスキルアップし、それを認めた企業がより高待遇で招き入れるというシステムが根づいています。転職に難色を示す日本と違い、何社も経験したことが勲章になっていく。これが本当の意味での『就職』です。現在の日本の雇用環境の不安定性は『就社』と『就職』が混在しているからですが、どちらも大事なのです」
_社会・経済の変化にともない働く環境は変化していますよね。
「今や一から新入社員教育ができる会社は少なくなり、即戦力としての専門性を求めています。ひとつの会社で学びながら長く働く日本的『就社』は、高度成長期の雇用形態としては極めてうまく機能したと思います。ですがグローバル化と社会の成熟化に伴い働く環境が変化していく中で、システム自体も変わっていくことは必然だと考えています。
これからは学校、家庭、社会が連携しての職業的専門性を育む仕組みづくりが必要です。社会全体で若者が働ける場を用意し、若者も社会で必要とされる実務能力をきちんと身に着けておく。そうした仕組みをつくるのです。もっと欲を言えば、雇われることに満足するのではなく、自分で起業して多くの人を雇い、その家族も一緒に幸せにするという気概を持つ人が増えてほしいと思います。
一旦社会へ出た人が『もっと勉強しておけばよかった』と嘆くのはよく聞く話です。社会人が学び直す場や新しい事にチャレンジできるシステムを整備すれば、引きこもりなどに関する社会問題の解決へとつながるはずです」
_まずは、社会人も含めた教育システムを大胆に改革し、意識を変革していくということですね。
「そうです。教育は、将来世代への投資の第一歩ですが、その他にも様々なプランを考えています。今課題になっている保育の充実や、20代半ばから30代の女性をとことん応援する制度など。それらをすべて話していたら、明日になってしまいます(笑)」
_それは困ります。
「とにかく、若い人が学び、働き、活き活きと人生を送れる世の中をつくっていく。これが私の人生後半戦の目標です」
_ありがとうございました。
「お疲れ様でした」