平成時代を振り返る ~激動が続いた平成の自分史と令和時代への思い~(広報誌18号)
みなさん、こんにちは。いつも吉良州司を温かくご支援戴き、深く感謝致します。
昨年から「きらきら広報」は、通常国会終了後の国会報告を中心とした広報誌として発行しています。本広報誌の内容は、昨年秋の臨時国会、今年の通常国会、および同時期の日本の社会情勢がその中心となっています。北方領土問題、消費税、各種コラム記事、所属する文部科学委員会の議事録、写真で見る活動報告など、で構成されています。お時間の許す限り、目を通して戴ければ幸いです。
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さて、この5月から令和の時代が始まりました。みなさんは、どのように平成時代を振り返り、どのような気持ちで新しい令和の時代をお迎えになったのでしょうか。
本巻頭言では、激動続きだった平成時代の自分の人生を、当時の世界や日本の動向を織り交ぜながら、振り返ります。平成前半は大分県庁出向からはじまり、会社の電力プロジェクト部に復帰してからは、世界を飛び回り、その後、ニューヨークで駐在生活を送るなど、故郷大分と世界を舞台に、民間社会人としての人生を過ごし、会社退職後の平成15年の大分県知事選挙に出馬してからは政治の道を歩むことになります。
激動が続いた平成の自分史
NHK特派員報告と新日本紀行
年配の方はよくご存じの番組ですが、私は、子供の頃、NHKの「特派員報告」と「新日本紀行」が大好きでした。見知らぬ外国には、どんな人たちがいて、どんな生活をしているのか、私の世界への好奇心を充たしてくれる「特派員報告」が大好きでした。また、奥深い農村を中心とする日本の原風景と、そこで暮らす素朴な人たちのありのままを伝えてくれる「新日本紀行」は、日本の原点である「故郷」への愛情、愛着を強く持たせてくれました。
激動の平成が始まる
私にとっての平成は、この故郷と世界を舞台として始まります。
平成の始まりは、内外ともに激動の1989年。天安門事件にはじまり、ベルリンの壁の崩壊、数年後にはソ連も瓦解して東西冷戦が幕を閉じます。国内にあっては、バブルが最高潮に達した年ながら、2年後にはバブルが崩壊し、日本の経済社会は大混乱に陥り「失われた10年、20年」の停滞期に突入します。
平成元年を故郷大分で迎える
平成元年1989年、私は故郷大分の舞台に立ちます。同年4月に総合商社・日商岩井から、自らつくった制度で大分県庁に出向します。その発端は、日商岩井の若手有志による会社の改革運動でした。「コンセプトは脱藩」、「倜儻不羈(てきとうふき)の精神(独立して束縛されないこと)」を旗印に、ベンチャーの設立・経営など、一度、大組織から離れ、若手ながら独立して活動することを仲間と誓い合います。当時私は、バブル経済下の東京一極集中が、東京の活力も、地方の活力も奪っているとの危機感を強く持っていました。そこで、「地方が元気でなければ、真に豊かな日本は築けない。自分を故郷大分の県庁に出向させてほしい」と、当時の速水優社長(後の日銀総裁)に訴え、当時の平松大分県知事に受入を要請し、故郷大分に飛び込みました。その当時の問題意識と意気込みを転任の挨拶文で次のように表現しています。
〈冒頭挨拶文省略〉
近年、日本経済の国際的地位が急速に高まり、金融・情報等の分野における世界の中心としての役割が増大する過程で、東京圏への一極集中が促進されておりますが、この傾向は東京圏においては地価の高騰を生じさせ、「持たざる者」にとっては「マイホームの夢」どころか「2DKの借家の望み」すら奪い去らんとしております。一方、地方圏においては円高・経済のソフト化に伴う急速な産業構造転換の過程で構造不況に陥り、雇用機会、所得の伸び悩み、若年労働力の流失等の諸問題が深刻化しております。〈中略〉 私は、大分県の地域振興政策を学びながら民間企業がどのような形でこれらの政策に協力できるのか自分なりの解答を見出したいと考えております。
〈締めの文省略〉
平成元年4月 吉良 州司
バブル期社会の矛盾への怒り
この挨拶文が示す社会的経済的背景こそ、後に政治の道を歩み始める重要なきっかけになります。バブル経済下、会社の同僚もみな「乗り遅れる」との思いからでしょう、都心から通勤に1時間以上かかる2LDK、5000万円、6000万円のマンションを競うように買っていました。私は、「乗り遅れるだとか、みんな周りに振りまわされるから、こんな法外な値段に吊り上がってしまう。そんなマンションに一生かかってローンを払い続ける価値があるのか。冷静になってみれば、そんな価値がないのがわかる。俺は絶対にそんな買いものはしない」とバブルの馬鹿々々しさを指摘し、そんな世の中の風潮に背を向けていました。
更に問題だったのは当時の不動産ビジネスです。不動産業自体は重要な産業だと思っていますが、バブル熱狂下の不動産ビジネスは度を超えていました。多くの会社、いや都市部を本拠とする会社は例外なく、不動産を買い、その不動産の転売利益や、不動産の含み益が決算上重要な役割を担っていました。会社が次々と不動産を買い、その値があがり、会社は利益を得るが、社員は高くなったマンション、土地など手が出なくなってしまい、マイホームの夢を諦めなければならない。「会社だけが栄えて、社員が苦労する」、「こんな馬鹿な社会があるか」と怒りまくっていました。その怒りこそが、「生活者主権の政治」を志す原点です。自民党の供給者優先政治は、会社、業界が儲かることが善なので、バブル経済は大歓迎です。しかし、一番大事なのは、一人ひとりの生活者です。「会社だけが栄えて、生活者が苦労する」そんな馬鹿な社会、「2DKの借家の望み」すら奪いかねない、生活者を無視、軽視する社会への怒りが私の政治の原点なのです。
歴史の大転換期への予感と行動
~ハンガリー訪問とベルリンの壁崩壊~
大分県庁での仕事をはじめた矢先、日商岩井から連絡がきます。10年目社員の連続2週間夏休みの連絡でした。目を世界に転じれば、ソ連のゴルバチョフ共産党書記長によるペレストロイカ推進により、ソ連の東欧諸国締め付けが緩和されます。その影響でしょう、1988年夏ごろから、東ドイツの人々が、ハンガリーで夏休みを過ごすとの名目で同国に移動し、国境を接する西側陣営のオーストリアに次々と亡命する様子が毎日のように報道されていました。
私は「今、歴史が動いている。今、世界史的な大転換期に直面している」と直感しました。そして、2週間休暇を利用して、その歴史が動いている現場を自分の目で見てみたいと思いました。そして、1989年8月に亡命の現場となっている国境を見るために大分からハンガリーに向けて飛び立ちました。故郷の舞台から世界の舞台へ。この旅で一番印象深かったのは、現場の国境はただの国境でしたが、貧しいと思っていた東欧ハンガリーが想像をはるかに超える豊かな国だったことです。ブラジル留学時代に、アルゼンチンを訪れた際にも、借金国というイメージからかけ離れた豊かさを感じたのと同じでした。自分の目で見ることの重要性を痛感します。
ハンガリー渡航から3か月後の11月9日、ベルリンの壁が壊れ、東西冷戦の終わりを目の当たりにし、「今、歴史が動いている」との直感で行動に出たことに武者震いしたことを覚えています。
私は、ゴルバチョフソ連共産党書記長を20世紀のもっとも偉大なリーダーの一人だと思っています。
大分のバルセロナ・プロジェクト
大分県出向中、私は平松県知事の「特命事項」担当として「バルセロナ・プロジェクト」を推進します。詳細は割愛しますが、大分が世界に打って出るにもってこいのプロジェクトを提案してくれと指示され、私は、「1992年のバルセロナ・オリンピック、同年開催のスペイン・セビリア万博、同年のEU発足予定など、世界の耳目は欧州、スペインに集まる。特に、オリンピック開催のバルセロナは注目の的になるので、大分の拠点、たとえばアンテナショップを同地につくること」を提案しました。但し、民間企業社員として強調したのは、アンテナショップで採算など取れるはずもないので、あくまで県庁職員や県民が「世界を経験する研修の場」とすべきだと主張していました。
1991年1月、バルセロナ・プロジェクト現地調査出張に出ますが、衝撃的な三つのことを経験します。
ドイツ人、その見識や畏るべし
一つ目は、バルセロナでのドイツ人との出会いです。ホテルで一人食事をしていたところ、同じように一人で食事をしていた男性と目が合い、一緒に食事をすることになりました。その際、ドイツの化学会社に勤める壮年の彼と、「ドイツは今後どうなってゆくのか、ゴルバチョフをどう評価しているのか、将来の欧州の安全保障はどうなるのか」など話しました。彼が、「ソ連は民主化が進む。そのソ連や東方諸国まで北大西洋条約機構(NATO)に加盟してもらい、今後は、人の命を大切にしていない、核や強大な軍事力を有する中東やアジアの国々から、欧州を守るNATOにすべきだ」と熱く語る姿は衝撃的でした。会食当時の1991年1月は、まだ、ゴルバチョフ大統領のソ連も、NATOに対抗するワルシャワ条約機構も存在していた時期です。今現在でこそ、東欧諸国が次々にNATOに加盟していますが、1991年1月当時に、そんな先の時代を予見できる民間ビジネスマンがいるとは、「ドイツ畏るべし」と衝撃でした。ドイツの強さはこのような民間人の見識の高さにあるのだと思います。
キューバ革命の生き証人と遭遇
二つ目は、バルセロナの大型複合施設建設事業の現地責任者との出会いです。1992年のバルセロナ・ブームに伴う集客を見込んで進められていた同事業に、日本の「そごう」が参入を計画しており、「そごう」の中に大分のアンテナショップを入居させてもらえないか検討していました。
ベネズエラ国籍の彼はスペイン語に加え、あまりに英語が流暢なので理由を聞いてみました。返答は「自分の父は、キューバでプランテーション経営をやっていたが、1959年のカストロ革命時、自分含め家族全員が命がけで脱出し、ベネズエラに亡命した。自分はベネズエラで育ったが、高校の段階から米国で教育を受けた」とのこと。世界史上のカストロ・キューバ革命を実体験として持つ人物でした。商社マン生活の中では、度々、このような生きた歴史と対面することになります。
パリ滞在時に湾岸戦争勃発
バルセロナ出張時の衝撃三つ目は、帰国途上のパリで一泊していた夜中、突然ホテルの電話が鳴りました。電話は会社の出身営業部の部長からでした。「吉良、夜中だけど、今すぐテレビを見てみろ!ついに、アメリカがイラクに攻撃を始めた!帰国する際の航空会社はJALなどナショナルフラッグを絶対使うな!テロ対象になるから危ないぞ!いいな!無事の帰国を祈る」とのことでした。
そうです。1990年8月のクウェート侵攻に国際社会が反発し、国連安全保障理事会がイラクに撤退を要求しても、イラクが応じなかったため、米国を中心とする多国籍軍が、1991年1月16日に「砂漠の嵐作戦」と呼ばれる大規模な空爆を始めた瞬間でした。またも、故郷の舞台を出発点として、歴史を動かす世界の舞台を経験したのです。
9・11同時多発テロもブラジルで
湾岸戦争から10年後の2001年9月11日の同時多発テロの時、私は、その2週間前の8月27、28日とニューヨークに滞在した後、ブラジル・サンパウロに向かい、同地で世界貿易センタービルへの体当たりテロを見ました。手元には、2001年9月13日ニューヨーク着の航空チケットがありましたが、その時も東京から電話があり、「吉良、米国には入国するな!また、ナショナルフラッグの航空会社を使うな!欧州の主要都市を経由するな!マイナーな航空会社を使い、主要ではない都市を経由する便で帰国しろ!場合によってはブラジル出張期間を伸ばし、少し落ち着いてから帰国してもいい」とのことでした。9月11日から4日間は米国の空の便は全て欠航でしたので、チケット通りに帰国することはなく、それから2週間後に、湾岸戦争勃発時に滞在中だったパリ経由で帰国しました。
商社では当たり前の大事件との遭遇
商社にいると、こんなことばかりです。オフィスの同じ階には、湾岸戦争時にイラクで人質だった人、レバノン内戦時に命懸けで脱出した人、インドの飛行機墜落事故に遭いながら奇跡的に生存していた人など、世界の大事件の当事者がごろごろいます。私は、直接事件当事者になったことはありませんが、大親友がペルー大使公邸人質事件で人質になるなど、大事件が身近に感じられる経験ばかりです。
激動の平成時代と激動の自分史
このように、私にとっての平成は、国内的には、東京一極集中とバブル経済がもたらす日本の不均衡でいびつな姿と、バブルの絶頂から崩壊へと続く大混乱の時代として、また、世界に目を転じれば、ベルリンの壁崩壊から東西冷戦の終焉、そして、冷戦後に世界各地で戦争や紛争が頻発してしまう時代として始まります。
大分県庁から会社に帰任後の生活
大分県庁から会社に帰任後、ニューヨークに赴任するまでの4年間は、海外出張だらけの日々でしたが、仕事は実に面白く、充実した日々を送ります。家庭生活でも3人目の娘も生まれ、かわいい娘たちの笑顔に癒される日々でした。
ロシア革命経験者の息子との遭遇
この間の海外出張時、またまた生きた歴史と遭遇します。カナダの会社の部長と仲良くなり、一緒に食事をしていた時のこと、私が、歴史が動いていると感じて1989年にハンガリーに行った話をすると、彼から感動的な物語を聴くことになります。「カナダの現内閣の閣僚中4人がウクライナをルーツに持っている。カナダは東の地域はフランスにより、西の地域は英国により開拓が進むが、ロッキー山脈がある真ん中の地域は開拓が遅れた。そこで、19世紀中ごろ、スペイン人やイタリア人を募集して開拓に従事してもらったが、彼らには寒すぎてすぐに撤退した。そこで今度はウクライナ人の募集をしたところ、寒さに強い彼らによって開拓が進んだ。その後、1917年のロシア革命時、知識階級や資産家が亡命先として選んだのが、同郷の仲間がいるカナダだった。彼の父も7歳の時にロシア革命に遭い、家族と一緒にカナダに亡命した。父も高齢となり、死ぬ前に一度故郷を見たいと言い出したので、自分が1989年にウクライナに連れていった。親戚とも会えて、父は大喜びだった。そして、1989年の11月9日に東ベルリンの空港に降り立った。その直後にベルリンの壁が崩壊したので、自分と父がそのパスポートに押してもらった東ベルリンの入国印は、恐らく歴史上同地への最後の入国印だと思う」と。ロシア革命の生き残りを父に持ち、革命の影響で、カナダ人として生きてゆくことになった「生きた歴史」とまたも遭遇したことに感動を覚えました。
30代半ば、大分1区出馬要請受ける
また、この間、当時の畑英次郎代議士、釘宮磐参議など自民党を飛び出した現職国会議員から、大分1区での衆議院選挙出馬要請を受けます。政治の世界にはいずれ飛び込みたいという思いがあった一方、ニューヨークへの駐在が決まっていて、岩国哲人元出雲市長の著書「男が決断する時」に影響を受けていた私は、政治よりも家族を優先する決断をします。ビジネスマンにとっての、否、商社マンにとっても憧れの赴任地であるニューヨークで商社ビジネスの醍醐味を味わい、家族、娘たちには英語に不自由しない環境を与え、帰国後は政治の道も含め、好きな道を歩み始めるための決断でした。
阪神淡路大震災と地下鉄サリン事件
ニューヨークに赴任する1995年(平成7年)には日本を揺るがす大事件が起こります。まず同年1月17日の阪神淡路大震災です。関西系商社である日商岩井には関西出身者が多く、その実家や家族が被害に遭っていました。父母を亡くされた社員もいたので他人ごとではありませんでした。また、災害の恐ろしさ、災害対策、防災の重要性を痛感した震災でした。
そして、1995年3月20日の朝、私が利用する丸の内線の四ツ谷駅が騒がしくなっていて地下鉄サリン事件の発生を知ります。あと45分早く出社していれば事件に巻き込まれた可能性もありました。それから3週間後、サリン事件の恐怖が冷めやらない4月はじめニューヨークに赴任します。
このように、日本と世界の激動期に私自身も大きく関わる平成時代の始まりでした。
米国から帰国後、大分県知事選挙へ
1995年からの米国生活では、米国が持つ時間、空間、気持ちのゆとりを含む「真の豊かさ」を実感できました。今政治の世界で「真に豊かな日本の創造」を目指す中で、その実感は、豊かさの具体的イメージとして大変役にたっています。
米国から帰国後の2003年(平成15年)、私は大分県知事選挙に出馬します。平成元年を故郷大分で迎えた私は、その折り返し地点で、再び故郷大分の地で、今度は政治家としての道を歩き始めます。そして、無所属で初当選して以降、民主党の野党時代、政権時代ともに海外経験を活かし、外交・安全保障、エネルギー分野に深く関わることになります。
舞台は故郷大分と世界
「新日本紀行」と「特派員報告」が大好きだった私は、このように、平成のはじまりは「地方が元気にならなければ、真に豊かな日本は築けない」との思いから飛び込んだ故郷大分を舞台とし、平成の半ばと後半は、商社マンとして、また、政治家として、世界を舞台とする人生を歩むことになりました。
令和の時代への思い
令和の時代も激動は続く
平成から令和の時代になっても尚、内外の激動は続いています。
国際社会においては、米中貿易摩擦は勿論のこと、米国トランプ大統領の存在自体が一番大きな不安要素です。同大統領の突然の「イランの核合意からの離脱」と同国への経済制裁、そして、イランの反発により中東情勢は緊迫の度を強めています。現実的エネルギー安全保障政策が強く求められるのは、中東情勢が常に平穏とは限らないからです。エネルギー政策を含む外交安全保障については国家としての現実対応が重要です。それ故、政権党と政権を担わんとする政党に大きな違いがあってはならないと思います。 冷徹な現実認識に基づく現実的外交安全保障・エネルギー政策は令和の時代も基本とすべきです。
「生活者優先」の政治
内政においては、自民党政権が常に供給者と業界の立場に立つ「業界優先」であることの結果として、会社業績はいいのに、社員を含む生活者が豊かさを実感できない、むしろ生活が苦しいと感じていることが最も大きな問題です。この矛盾した現状を「生活者優先」の政策により、生活者一人ひとりが豊かさと幸せを感じることができる国や社会に変えていかなければなりません。
将来世代最優先の政治を
そして、豊かさと幸せを感じることができる国や社会をつくるのは、今の子ども達であり、将来世代です。外交や経済分野を専門領域としてきた私が、昨年の臨時国会以来、文部科学委員会に所属しています。それは、日本が抱える最大の課題は、人口減少と少子化、それらがもたらす日本の社会・経済の活力低下の恐れであり、その対策は、子ども達への徹底した教育と子育て世代への国を挙げての支援しかないと信じて疑わないからです。
今を生きる人だけのための政治ではなく、将来を生きる人の生活や幸せを考えた「将来世代最優先の政治」を強力に推し進めなくてはなりません。
私は、令和の時代も「生活者主権の政治」「将来世代最優先の政治」の実現に奔走したいと思います。