吉良からのメッセージ

2019年2月18日

北方領土問題の本質と対応 その7 歴史的経緯2

北方領土問題シリーズ第7弾です。

前々回の第5弾のメルマガにおいて、「北方4島は日本固有の領土だ」と断言できる根拠は、松前藩が17世紀初頭から北方四島を自藩領と認識して統治を確立していた事実と日魯通好条約(1855年)と樺太千島交換条約(1875年)において、平和時に日露両国間で争点なく国境を相互確認したことをお伝えしました。但し、日露戦争後のポーツマス条約(南樺太と全千島列島の日本領有が取決められた)の結果はロシア人をして、日本に対する「臥薪嘗胆」に向かわせた可能性があるということを、歴史的経緯の初回として説明させて戴きました。

今回は、歴史的経緯の続きですが、各条約や声明などについて、北方領土問題に関わる事項を編年式に要約してお伝えします。

1.サンフランシスコ平和条約(1951年9月)

1)ソ連軍は日本降伏後の9月5日までに「北方領土」を占領し、「第二次世界大戦の結果として、北方領土は合法的に自国領になったと」主張し、現在に至っています。
2)日本が独立を回復したサンフランシスコ平和条約において、日本は「千島列島」を放棄することが決定されましたが、「千島列島の範囲」は定義されておらず、また、誰が(どの国が)千島を領有するのか、については何も決められていません。
3)サンフランシスコ講和会議にソ連は参加しましたが、講和条約には署名しておらず、日ソ間の戦争状態の終結は、個別の平和条約交渉・締結に委ねられることになりました。
4)日本全権だった吉田茂首相は「歯舞、色丹は北海道の一部で、千島に属さない」と述べる一方、択捉島、国後島については「昔から日本領土だった」と言及するにとどまりました。
5)因みに、外務省の西村熊雄条約局長は1951年10月の衆議院特別委員会で「放棄した千島列島に南千島(国後島、択捉島)も含まれる」と答弁した経緯があり、日本政府として、「千島列島」の定義につき現在と一貫性を欠く時期がありました。

2.日ソ共同宣言

この全文を下部に掲載していますので、ご参照ください。

1)日ソ間の戦争状態終結と国交回復を確認し各々の国会で批准された国際条約です
2)日本側は「四島返還」での継続協議を要求しましたが、ソ連側は受け入れず、平和条約締結後「ソ連は歯舞群島及び色丹島を日本国に引き渡す」ことが合意されました。
3)戦後11年経っても残っていたシベリア抑留者の帰国が確認されました。

3.フルシチョフ第1書記時代のソ連の態度の硬化

1960年日米安保条約の改定に反発したソ連は日ソ共同言の内容を後退させ、「領土問題は解決済み」との立場を鮮明にしました。これに対し、日本は反論の上、4島返還を主張します。

4.ゴルバチョフ大統領時代のソ連の軟化

1991年、ゴルバチョフ大統領が来日し、「解決済み」の見解を転換し、海部俊樹首相との間で、「4島の帰属問題」について話し合ったことを表明し、ソ連側は、4島が領土問題の対象であることを事実上認めました。

5.東京宣言

1993年、エリツィン・ロシア大統領、細川護煕首相が「東京宣言」に署名。この宣言により、1956年の日ソ共同宣言で合意した「平和条約の交渉継続」が、「北方四島の帰属の問題を解決すること」だと明記されました

6.「クラスノヤルスク合意」(1997年11月)と「川奈提案」(1998年4月)

1)エリツィン大統領と橋本首相間の「クラスノヤルスク合意」(1997年11月)は、「東京宣言」に基づき、2000年までの平和条約締結に全力をつくすことが合意されました。
2)川奈において、「択捉島とウルップ島間が最終的な国境線」であるが、「当面、ロシアの施政を合法的と認めた上、四島の現状を全く変えずに現状を継続」することを日本側から提案しますが、ロシア側は同提案を「香港方式」として同意しませんでした。

7.イルクーツク声明

2001年3月、プーチン大統領と森喜朗首相が、イルクーツクにて会談し、下記が確認されました。

1)1956年の日ソ共同宣言を「平和条約交渉締結に関する出発点を設定した基本的な法的文書」とする。
2)「東京宣言」に基づき、4島の帰属問題を解決することにより、平和条約を締結し、両国関係を完全正常化するため、交渉を促進する
3)「同時並行協議方式」を提案:日ソ共同宣言に基づき、歯舞、色丹の返還を先行させ、東京宣言で帰属問題が争点となっている「国後、択捉の帰属問題は交渉の結果による」とするもの。

ところが、「同時並行協議方式は国後、択捉を諦めることにつながる」との国内反対論が強まり頓挫してしまいます。

8.2000年代の歴代日本首相とロシア大統領との会談

その後、日本側は小泉純一郎首相、(第一次)安倍晋三首相、福田康夫首相、麻生太郎首相、鳩山由紀夫首相、菅直人首相、野田佳彦首相、ロシア側はプーチン大統領、メドベージェフ大統領間で、会談が行われ、概して、「4島帰属問題を解決して、平和条約を締結する」との意気込みが確認されました。

9.メドベージェフ大統領による国後島公式訪問による日ロ関係の冷却化

2010年にメドベージェフ大統領が国後島を公式訪問し、日露関係は冷え込むことになりますが、2012年にプーチン氏が大統領に復帰し、日本も安倍首相の再登場により、両国関係は再び改善に向けて動き出します。

10.日露パートナーシップの発展に関する共同声明

2013年、プーチン大統領と安倍首相間で、「日露パートナーシップの発展に関する共同声明」が発表され、「北方領土問題は、これまでに採択されたすべての諸文書および諸合意に基づいて交渉を進め、双方に受け入れ可能な形で最終的に解決することにより、平和条約を締結する」という決意が表明されました。

11.プーチン大統領の突然の「前提条件なしで、年末までに平和条約締結を」との提案

昨年、2018年9月、プーチン大統領は、ウラジオストクで開かれた「東方経済フォーラム」において、安倍晋三首相に対し、突然(?)、「あらゆる前提条件を抜きにして、今年末までに平和条約を結ばないか」と呼びかけました。この発言を契機として、日ロ平和条約締結に向けての活動が加速することになり、今日に至っています。

長くなりましたので、「歴史的経緯の説明」は、前々回と今回で終了し、次の段階(北方領土問題の本質と対応)に移っていきたいと思います。

吉良州司