吉良州司自らが語る器用貧乏の趣味と特技
器用貧乏というと半分ほどは聞こえがいいのですが、とにかくいろんなことに興味があり、のめり込みます。それを趣味と言えるかどうか、わかりませんが、どれかひとつの道を究めるといったことからは、程遠いものの、素人の域からすると結構突っ込んでやっていたか今もやっている、少なくとも強く興味を持っている、そのような趣味的な事柄は以下の通りです。
(1)スポーツ全般、特に球技が好きでもあり得意でもありました。
野球部でしたが、バレー、バスケットなども結構得意です。中学時代は野球部の傍ら陸上競技大会に出場し、200m、走高跳、800mリレーの大分市、県大会に出場して入賞しています。縄跳びも60歳を過ぎた今でも二重跳び50回はやれます。バスケットのフリースローも5回に3回は入ります。テニス、卓球などもそこそこやります。ラグビーは大好きですが、自分は素人なので、もっぱら観戦です。大学ラグビーは早稲田、明治の両雄の大ファンで、毎年の関東の大学対抗戦や大学選手権などを見に行くか、録画を含めテレビで応援しています。昨年のラグビーワールドカップは大興奮でした。サッカーのワールドカップも楽しみにしています。
(2)大学時代は山登り。厳冬期(1月中旬から2月)を除く冬山もロッククライミングもやっていました。最近では、嫁さんと一緒に昨年(2019年)西穂高に登りましたが、途中まではロープウェイでした。今後、何とか時間をつくって、嫁さんと一緒に山歩きをしたいと思っています。近い将来の目標は、北アルプスの燕岳か蝶が岳に嫁さんを連れていって、目の前にド迫力の槍ヶ岳、穂高連峰を見せてやることです。
(3)将棋、連珠(五目並べの本格的なやつ)が好きで、娘にも教えて、一緒にやるのが父娘の絆にもなっていました。今は、藤井聡太7段の活躍を楽しみにしています。
(4)歴史小説、特に司馬遼太郎や浅田次郎が好きです。司馬遼太郎の本はほとんど全て読んでいて、司馬遼太郎史観に染まっているかもしれません。日本史、世界史とも歴史そのものも好きで、歴史自体の本を読むことも大好きです。
(5)旅行が好きで、若い頃は、北海道、南米など冒険旅行にはまっていました。北海道はテント生活1か月、原生林の生い茂る北海道ど真ん中の山を歩きまわり、知床半島は歩いて横断、摩周湖、屈斜路湖、阿寒湖などは自転車で巡りました。南米では280時間バスに乗りながら、2万キロの冒険旅行を楽しみましたが、命の危険を感じる場面も何度かありました。家族旅行は、全て手づくり旅行です。海外への旅行が多かったのですが、飛行機、鉄道レンタカーなど移動手段を自分で予約し、ホテルについては食事や宿泊料金など直接交渉で決めていました。
(6)世界の地理や民族の歴史にものすごく興味があり、民族史の本は何回も何回も読みます。オリンピックの入場行進の際には、各々の民族の特徴的な顔立ちを見ながら、同時に、その歴史を想い浮かべながら楽しんでいます。
(7)宇宙と自然系の番組が大好きです。「美しい日本の山々」「美しい世界の山」「ダーウィンが来た」「ワイルドライフ」をはじめ、美しい風景や動物の生態を映像で伝えてくれる番組の録画だらけです。
また、コズミックフロントや「はやぶさプロジェクト」などの宇宙関連番組も大好きで、録画の山です。それほど専門的なものではありませんが、宇宙関連の本もよく読みます。
(8)大工仕事。自粛期間中はテレワークの合間に「本棚」をつくりましたが、大工仕事が好きです。家のリフォームに来てもらった大工さんが本当に「Cool!」だと思い、今からでも大工に弟子入りしたいくらいです。生まれ変わって、やりたいことは山ほどありますが、大工、特に宮大工は筆頭格の憧れの職業です。
9)芸術系は自分には全く能力がないことをよく知っていますが、風景画を見ることや音楽を聴くことも好きです。音楽では、南米によく行っていたので、素朴なフォルクローレが好きです。ペルー、エクアドル、ボリビアなどの本場で聴くことは勿論、ニューヨークやパリなど世界の大都市でもストリート・ミュージックとしてやっているので、時間があれば平気で1時間は立ち止まって聴き、CDを何枚も買います。フォルクローレの主要楽器であるサンポーニャやケーナを現地で買って家においてあるので、早く吹けるようになりたいと思っています。カラオケも楽しみます。
商社時代にどんな仕事をしていたのか
人事部(1980年4月〜1984年6月、4年3ヶ月間)
・新入社員採用担当(総合職、事務職)
・新入社員及び社員階層別研修教育担当 ・採用における主な仕事は有力学生の「くどき屋」。三菱商事、三井物産、丸紅などの上位商社、都市銀行、公務員、他有力メーカーなどに内定している学生を、お茶、酒を飲みながらくどき落として日商岩井に入ってもらうのが最も大事な仕事。自分自身も学生時代、日商岩井の役員や先輩に口説かれ内定していた三井物産を断って日商岩井に入社した経緯あり、手前味噌ながら「名物採用担当者」だった。
ブラジル留学(ジュイスジフォーラ連邦大学、1984年7月〜1985年6月、1年間)
・ ブラジル経済、社会の研究とポルトガル語習得。
・ 留学中の夏休み、1000ドルのみをポケットに入れ、ブラジル全土、南米南部(アルゼンチン、チリ)を貧乏旅行。点ではなく線や面での南米把握の為、ほとんどバスにより移動。合計2万キロ(地球の半周)、通算乗車時間280時間をバスにより移動。1000円(当時5ドル)前後のホテルに宿泊しながら、また、宿泊代を浮かせる為、夜行バスを多用しながらの研修旅行であった。このブラジル留学時代に送り続けた平松大分県知事宛現地レポートが後に大分県庁への出向へと繋がる。
電機部(後の電力プロジェクト部。1985年7月〜1989年3月、3年8ヶ月間)
・ 電力関連機器輸出。パキスタン、バングラディシュ、スリランカ等の案件発掘、契約交渉、契約履行。
・ 豪州各州電力会社向け水力発電機器・変電機器、整流器等の輸出、契約履行
・ 豪州の整流器関連エンジニアリング会社買収 ・ 米国西海岸の地熱発電、水力発電プロジェクトへの投融資案件追求。
・ トルコ民間発電事業型石炭火力発電プロジェクト推進
大分県庁出向(1989年4月〜1991年12月、1年9ヶ月間。
・企画総室地域振興課、農政部流通園芸課、商工労働観光部商工振興課所属
・地域振興策としてのバルセロナ・プロジェクトの立案・推進。
・地域振興、産業振興政策、過疎対策の研究及び立案。
・ 大分県庁への出向の発端は、日商岩井の若手有志による会社の「改革運動」。「コンセプトは脱藩」、「倜儻不羈(てきとうふき:自由で束縛されない様)の精神」を旗印に、自ら事業を興していくこと(企業内ベンチャー設立)をはじめ、一度大組織から離れて活動することを誓い合い、自分は「地方の活力なくして日本に真の豊かさは築けない」との問題意識の下、当時の速水社長(現日銀総裁)と大分県側(平松県知事、帯刀総務部長、各々当時)を説得して、大分県庁に飛び込むこととなった。
帰任後、電力プロジェクト部(1991年1月〜1995年3月、4年3ヶ月間)
・ 民間発電事業型プロジェクトの追求。フィリピン、メキシコ、中国等での独立系発電事業者に対しての投融資、ファイナンス組成、プラントの売込。日本輸銀(現国際協力銀行)、国際金融公社IFC、米州開発銀行IDB、アジア開発銀行ADB等との折衝、交渉。
・ 米国コネチカット州古タイヤ焚発電プロジェクトへの投資
日商岩井米国会社ニューヨーク本社インフラストラクチャー・プロジェクト部長(1995年4月〜2000年9月、5年6ヶ月間)
・ 米国での職務は、米国を市場として位置付けるのではなく、米国を技術、資本、情報、Know-Howの供給源と捉え、米国企業およびワシントン等に本拠を置く国際機関(世界銀行、国際金融公社、米州開発銀行、米国輸銀、多国籍間保険機構など)と共同して発展途上国のインフラストラクチャー・プロジェクトを成就させることにあった。
・ メキシコ民間発電事業プロジェクトへの投資案件2件の推進、受注、事業投資(事業規模、2件合計約800億円)
・ パキスタン民間発電事業型プロジェクトへの融資、プラント供給(事業規模約180億円)
・ ブラジル自動車部品会社向工作機械供給(三国間貿易。日、独、伊メーカー製工作機械)
・ ペルー鉱山会社向ファイナンス付大型建設機械供給(三国間貿易。米国メーカー)
・ コロンビア鉱山会社向ファイナンス付大型建設機械供給(三国間貿易。米国メーカー)
・ チリ自動車販売会社向ファイナンス付車販売(三国間貿易。日系メキシコ・メーカー)
・ エクアドル自動車販売会社向ファイナンス付建設機械販売(三国間貿易。米国メーカー)
・ 日商岩井(株)が保有する営業投融資資産の米国金融機関、投資ファンド等への売却交渉
・ 米国の建設機械販売会社への投資と管理
・ 中南米向医療機器のファイナンス付販売
帰国後、医療システム部第一課課長(2000年9月〜2002年3月、1年6ヶ月間)
・ ブラジル厚生省、文部省向医療・教育関連機器輸出案件の受注、履行(規模約120億円)。
・ フィリピン教育省向衛星利用遠隔教育プロジェクト推進
・ トルコの大学向医療機械の輸出、三国間貿易
日商岩井(株)退職(2002年3月)
吉良州司の生い立ちから会社生活まで
生い立ちと父母
私は 昭和33年3月16日、父、市雄、母、トシ子の次男として、玖珠郡玖珠町森で生まれました。
父は厳格を絵に描いたような刑事畑の警察官で、「質実剛健」を強引に3人の息子達に教え込もうとしていました。小さい頃から、「言い訳をするな!」「義を言うな!」という父の口癖に加え、「喧嘩をするな!喧嘩は弱い男がするもので、本当に強い男は喧嘩はしない。しかし、どうしても喧嘩をしなければならない時は必ず自分より強いと思える相手とやれ。そして、絶対に負けるな!」と言い聞かされて育ちました。「喧嘩をするな!」と教える割にはいつも兄弟間でレスリングや柔道などをやらせ、鍛えまくる父でした。その鍛え方は尋常ではなく、小学校の時など、兄は400回、私は300回、弟も200回も腹筋運動をやらされる始末です。その度に兄はお尻の皮が剥けていたものです。これだけ鍛えられれば、ある程度強くなるのは当たり前で、弟が幼稚園の時など、毎日「今日はあいつを泣かせた」「今日はあいつが俺より強いーちいばるけん、こづいてきた」とか何とか、父の教えをよそに番長のような存在でした。なかなか「ゴメンナサイ」が言えなかった私は、兄弟の中でも父から一番こっぴどく叩かれました。自分は3人の娘の父となりましたが、こんなにかわいい自分の子供を、それが男の子だとはいえ、よくもまあ、あれだけ情け容赦なく叩きまくれたものです。正に鬼のような父でした。実際、息子達だけでなく泥棒さん達にも「鬼」と恐れられていたようですが。。。。。その父も孫が相手になるともう顔もくしゃくしゃで、もう見ているのが恥ずかしくなる程の好々爺になってしまいました。
母は、決して豊かではない家計の中で、男の子3人を育て大学まで行かせる為、肉や魚など栄養のあるものはほとんど子供に食べさせ、自分は漬物ばかり食べていました。また、『かあさんの歌』ではありませんが、自分達が小さかった頃母は夜中までいつも別府の竹細工や毛糸編みなどの内職をしていました。そんな母を見ていましたから、小さい頃『あれがほしい、これがほしい』とは決して言えませんでした。次男坊の宿命で、服はお下がりと決まっていましたから、たまに親戚から新品の服をもらった時などは大喜びでした。母は勉強が好きで、実際よくできる娘だったようですが、自分の親とは一緒に暮らせない境遇で育ち、子守りが役回りになっていましたから、勉強したくてもできなかったことをとても残念がり、勉強しようと思えばいつでもできる自分達の環境を羨ましがっていました。小さい頃、実の親兄弟と暮らせなかった為、家族の絆を一番大事に考え、貧しくても親兄弟が支えあって一緒に暮らせることを何よりも幸せに感じていた母です。
小学校時代
小学校時代、『学校は自分を中心に回っている!』と思える程、学校生活を楽しみました。得意は何といっても体育。6年間を通じ、というより、高校までを含めた学校生活で体育の成績が5でなかったことは1回か2回だけです。ドッジボール、サッカー、短距離、長距離、走り幅跳び、走り高跳び、ポートボール、など体育の授業でやる競技は得意中の得意。吉良家の3兄弟みんなそうですが、小学校から高校まで、運動会、体育祭といえば、いつも紅白対抗リレーやクラス対抗リレーの選手として活躍する一年に一度の花形イベントで、それはもう親戚や父の職場の同僚まで呼んで披露する吉良家にとって鼻高々のお祭りでした。小学校4年生頃からは野球に熱中し、別府時代、中津時代は速球投手、3番打者、キャプテンとして野球チームを引っ張り、6年生の時には中津の校区地区大会で優勝投手になりました。野球がオフとなる秋・冬期間にはサッカー選手(FWのインナー)として(当時はビッグアイがありませんでしたから)別府実相寺の県大会にも出場しました。別府の南小学校時代の放課後は野球の他、パッチン、ビー玉、こま、泥団子作りにも熱中し、土の上を這いずり回って遊びまくりました。特に別府時代は、あまりにも腕白の為、よく職員室の床上に座らせられたり、バケツを持って立たされたりしていました。でもそのお陰で、学年以外の先生方にも有名になり、5年生の終わりに中津に転校することが決まるとほとんどの先生方が色紙に励ましの言葉を書いてくださり、校長先生は『お前がいなくなると学校から火が消えたごとなってしまうのう』と涙を流してくれました。中津時代はわずか1年間ではありましたが、吉良三兄弟の第一期黄金時代で、私は上述のようにエースとして野球の地区大会で優勝、兄(中学2年)は県陸上大会の走り高跳びで優勝、南部小学校のマラソン大会では私(6年)と弟(2年)が兄弟優勝しました。
中学校時代
中学時代は大分市城東中学野球部と野球部の悪がき仲間と過ごした3年間でした。
当時の中学運動部は男子は巨人の星にあこがれ野球部へ、女子はアタックNo.1に魅せられバレー部へという時代。野球部にも同学年で40人くらい入部しました。ショックだったのは「速球投手」を自認し、城東中学でもピッチャーになるものと思っていましたが、最初に身長や体重、遠投でピッチャー候補を決めてしまい、当時身長もそれ程大きくなっていなかったことと、何せ痩せていましたので、いきなり野手に転向させられたことです。でも、幸いにも80人いた部員の中で、2年生から出場させてもらえるようになり、1番打者に定着しました。まあ、城東中学の「イチロー」とでも言えましょうか、リードオフマンとしてヒットや四球で塁に出ては盗塁を繰り返しました。足には自信がありましたので、1塁に出れば必ず3塁まで行きました。ホームスチールを決めたこともあります。
また、野球部には属してはいましたが、走ったり跳ねたりするのが得意だったので、陸上部の助っ人として大分市、大分県の陸上大会に参加して城東中学を市内2位に導くことにも貢献しました。因みに、参加種目は200m走、走り高跳び、800mリレーです。200mは決勝には進出しましたが、3位以内には入れず、高跳びと800mリレーは3位でした(この2種目は県大会でも入賞しています)。この頃弟は小学校の県陸上大会で、100m走、走り幅跳び、1000m走、400mリレーと参加した全種目で優勝するなど、吉良兄弟にとっての第二期黄金時代でもありました。
今でも当時の野球部の仲間と会うと必ず言われることが、中体連でのタイムリーエラーのことです。城東中学の校庭で行われた中体連の試合で、全校生徒が見守る中、接戦で迎えた最終回に私が三遊間の厳しい当たりを横っ飛びに捕球したまでは良かったのですが、一塁に大暴投し、その後送りバントとスクイズで同点にされ、優勝候補の筆頭と言われながら試合を引き分け、抽選により敗退してしまったのです。この大暴投は本当に落ち込みました。でも仲間も「おいおい、人の失敗をそこまで覚えとくなよ!」と言いたくなるほど、みんなそのことをよく覚えていて、集まると必ず酒の肴にするのですから、この先も一生背負って生きていかなければならないのでしょう。
高校時代
私は、上野ヶ丘、雄城台との第2次合同選抜一期生として、昭和48年舞鶴高校に入学します。入学までの経緯と意気込みについては、「岩田学園での講演録」に詳述していますが、キャッチフレーズは「復興・舞鶴」でした。それまで、上野ヶ丘の後塵を拝していた舞鶴を大分県一の高校にしようという気概で、生徒会の仲間や城東中学以来の友人達と一緒に3年間奮闘しました。
そのハイライトといえるべき事件が「霊山遭難事件」で、これも、講演録の中で、詳述していますが、大学受験を控えた三年の秋、それも中間試験の前日に、私と仲間二人(23回生の生徒会長を務めた男と中学からの親友)の三人が、霊山で一夜(世間から見れば)消息を絶ってしまい、翌日には捜索隊が120人も出動するなどの大騒ぎとなった事件です。
この経験が余程面白かったのか、それとも生来の冒険心がそうさせるのか、その後、大学では山岳会に入って岩登りや冬山を含む登山に熱中し、ブラジル留学中は、バスで2万Kmも南米各地を冒険旅行するなど、波乱万丈の青年期を過ごすきっかけとなりました。
霊山遭難事件後は、「もう高校生活に思い残すことはない」と思えたので、それからは落着いて勉強し、「まぐれ」もここまでくれば奇跡ですが、現役で東大の文科1類に合格できました。
舞鶴23回生の生徒会の仲間や城東中学以来の仲間達とは高校時代から「日本のあるべき姿」や「これからの世界」について、よく夜を徹して語り合ったものですが、今思えば、政治の道を志す素地はこの頃からあったのかもしれません。
大学時代
大学時代の前半は山また山、登山に明け暮れる毎日、後半は山岳会のリーダーをやりながら、一方では他大学の有志を集めて「食料問題研究会」「国際政治経済研究会」という勉強会をつくるなど、元々勉強したかった国際関係論や国際政治など、世界に目を向けた勉強に熱中した日々でした。
「東大法学部山の会」というと何となく弁護士、判事、官僚、銀行員などの予備軍が一杯いる固いイメージを持たれるかもしれませんが、たまたま、私の同期達は「新人歓迎無料大コンパ!すき焼き付き!」という看板に魅せられて入会した極めて単純な連中(人を責められませんが)で、しかも、12人の同期の内、私を含む法学部生は2人しかおらず、まあ、一人を除くと固いというイメージからはほど遠い愉快な仲間達でした。
ロッククライミングも(1月中旬~2月の厳冬期を除く)冬山も楽しみました。冒険好きの私にとってはスリル万点の山男生活でした。無鉄砲だった私は「吉良落ち」と固有名詞がつくほど数多く雪山で滑落し、一度は鹿島槍ヶ岳で200mも回転しながら落ちたこともあります。そんな冒険好きで、無鉄砲の私が在学生だけでも30数人もいるこの会のリーダー(主将)になってしまったのですから、部員もたまったものではないでしょう。でも山で人の命を預かるという責任の重さを痛感し、リーダーとしての私は「吉良落ち」的な行動は一切取りませんでした。冬山の吹雪の中で、あと一歩で頂上だという状況の中で撤退を決断し、「死んでも頂上をアタックする」と主張する先輩達と大喧嘩したこともあります。たとえ先輩であっても山ではリーダーの指示に従うことになっているので最後はしぶしぶ従ってくれたのですが。この山岳会での経験は本当に貴重な経験で、生死の狭間での数々の判断はこの先色々な場面で私を助けてくれると思っています。尚、山岳部時代の昭和54年度リーダー吉良州司に関する記述については、「東京大学法学部山の会」創立60周年記念雑誌「山」を参照ください。
日商岩井時代
私が退職した後、日商岩井はニチメンと合併して双日となりましたが、合併前の日商岩井のホームページには、同社への就職に関心を持つ学生のためのコーナーがあり、そこで、日商岩井が誇る十人の社員が「日商岩井人」として紹介されていました。その筆頭に私を取り上げてくれていることは、日商岩井をこよなく楽しみ愛したものとして大変ありがたく、光栄に思っています。
日商岩井は、これが当たり前だと思って会社生活を送ってしまうと他の会社では窮屈過ぎて1ヶ月ともたないと言われる程、自由で、個性と自主性を重んじる風通しのよい、非常に働きやすい会社でした。個性が強く、自分の信念を貫きたいと思うタイプの人間、まあ「我儘で暴れん坊」の性格の人間にとっては最高の会社でした。
その会社に自分は感謝してもしきれないくらい大事に育ててもらいました。1989年当時、自治体に出向するなどという制度はありませんでしたが、「地方が元気にならなければ、真に豊かな日本は築けない。是非自分を故郷大分の県庁に出向させてくれ。そうしなければ日本がよくならない!」というわがままな主張を会社は受け入れてくれました。この研修出向中、会社が給料を払ってくれていたのです。また、その数年後、当時の会社の仕組みからいけば、地方自治体への出向という寄り道をした自分を、世界の中心ニューヨークに、しかも若いながら採算責任を持つ立場で派遣してくれました。
それだけに、辞める際、「自分は、これだけ大事にしてもらった会社にまだ恩返しできていないのではないか」という思いが強く、精神的には大変苦しい決断でした。
私が日商岩井時代、一体どのような仕事をしていたのか興味を持って戴ける方は「吉良州司の詳細職歴」をご参照ください。
ブラジル留学時代
入社後4年間人事部採用・研修担当の仕事をした後、会社の留学試験を受け、希望通りブラジルのジュイスジフォーラ連邦大学に留学することになりました。
ブラジルを希望したのは、若い時にいろいろな世界、特にそう簡単には行けない世界を見ておきたかったこと(先進国はいつでも行けるので)、また、日本とまるで逆の価値観や文化を持つ土地で生活し、人や民族やところが変われば、何が正しく、何が間違っているかも一様ではなく、価値観が異なってくることを体感したかったこと、更には南米という未知の土地で冒険したかったからです。
リオデジャネイロ(ブラジル人はヒオデジャネイロと発音します)から車で3時間ほど内陸に入ったミーナスジェライス州のドイツ系移民が多いジュイスジフォーラという街のドナ・イルマ(「イルマおばさん」という意)の家に月100ドルで下宿していました。
期待通り、ラテン系の人たちの生活、考え方、感じ方、人生の楽しみ方など、ほとんど全て日本のそれとは逆の世界で生活できたことは、自分で言うのはためらいもありますが、人間の幅が広がったように思っています。でも、最初の頃は、このいい加減な自分ですら、「こいつら、本当にいい加減なやつらだなあ」と思うことばかりで、まだ日本の価値観にこだわって生活していた時には、怒りもだえ、腹を立ててばかりの毎日でした。しかし、ブラジル生活に慣れ、そのいい加減さにも慣れてくると、日本の社会がどこか窮屈で堅苦しいので、だんだんブラジル的なおおらかさが好きになってきました。
自分のだらしなさを正当化するつもりではありませんが、見かけとは違って(?)、ブラジル的、ラテン的価値観にどっぷりと染まっていました。
この留学中の夏休み、1000ドルのみをポケットに入れ、ブラジル全土、南米南部(アルゼンチン、ウルグアイ、チリ)を旅しました。将来ブラジルや南米諸国に戻って仕事をする時は、政府や大企業を相手にすることになるので、このような自由な時間がある時に、貧乏旅行しながら、虫の目で南米の奥深いところまで這いずり回って冒険しようと旅に出たのです。その為、合計2万キロ(地球の半周)、通算乗車時間280時間をバスに乗って自分の目で見てきました。1000円(当時5ドル)前後のホテルに宿泊しながら、また、宿泊代を浮かせる為、夜行バスを多用しながらの冒険旅行でした。
これまでの人生の中で、大学時代の山岳部生活に匹敵するような刺激的で、冒険に充ち溢れたブラジル留学時代でした。
このブラジル留学時代に送り続けた平松大分県知事宛現地レポートが後に大分県庁への出向へと繋がり、更には大分県知事選挙に出馬することへと繋がっていきます。
(「平松守彦大分県知事宛ての手紙」中の南米旅行記報告は、こちらをご参照ください)
大分県庁出向時代
1990年、私は大分県庁に研修出向という形で故郷に戻ってきました。企画総室地域振興課、農政部流通園芸課、商工労働観光部商工振興課に合計1年9ヶ月お世話になり、この間、地域振興策、農業振興策、商工振興策などを勉強させてもらいました。
そもそも大分県庁への出向の発端は、日商岩井の若手有志による会社の「改革運動」でした。「コンセプトは脱藩」、「倜儻不羈(てきとうふき)の精神」(独立して束縛されないこと)を旗印に、自ら事業を興していくこと(企業内ベンチャー設立)をはじめ、一度大組織から離れて活動することを仲間と誓い合い、私は「地方の活力なくして日本に真の豊かさは築けない」との問題意識を持って、当時の速水社長(現日銀総裁)と大分県側を説得し、大分県庁に受け入れてもらいました。
この県庁時代は、会社とは一味違う面白さを味わせてもらいました。各地で活躍されている村おこしリーダーの方々、補助金なしで立派な経営をされている農家の方々、親身になって県民の声を聞く県庁職員の方々などと接する機会を得、多くのことを教えて戴きました。その方々の姿が目に焼きついているからこそ、これらの方々と一緒なら「元気な大分が創れる!」と確信して、2003年の大分県知事選挙に挑戦しました。
大分県庁出向時代には、総合商社から県庁に出向してきた面白い輩がいるということで、県庁内の勉強会は勿論、県内各地のイベントへのパネラーや大会・研修会・学校行事での講師を依頼されました。その講演内容について、下記の講演録をご参照ください。
「国際化時代に対応した国内農業」(大分県国見町の農業関係者400人を前に、32歳の若造だった吉良州司が「国際化」と「農業経営」を語る。過度な保護行政に対して疑問を呈するなど、現在の吉良州司の政治姿勢に繋がる見解が盛りだくさんの講演内容。1990年)
「世の中の、人は何とも言えば言え、我が為すことは我のみぞ知る」(坂本龍馬の歌「世の中の~」を講演テーマに、「自分の目で見て、自分の心で感じて、自分の頭で考え、自分の言葉で表現しよう!」と岩田学園の中1から高3の生徒たちに熱く語る講演内容。1989年)
ニューヨーク時代
私は1995年4月から2000年9月まで、日商岩井米国会社(NIAC)ニューヨーク本社に出向し、5年半、家族とともにニューヨーク近郊のニュージャージー州に住み、テロの対象となってしまったワールド・トレード・センターのあるマンハッタン島に通勤していました。
ニューヨークには赴任前にも10回程度出張していましたが、短期間ホテルに滞在するのと家族共々住みつくのとは大違いで、毎日の生活の中で改めて米国のすごさ、素晴らしさ、豊かさを実感していました。米国が持つこの時間、空間、気持ちのゆとりを含む本当の意味における豊かさについて、日々学ぶことが多く、家族にとっても「真の豊かさとは何か」を実感できるかけがえのない経験ができました。当時の米国生活は自分と家族にとってかけがえのない素晴らしい経験であっただけに、現在のトランプ政権を誕生させ、分断や差別を加速させる現在の米国が信じられないし、残念でなりません。
このニューヨーク時代には年に1-2度「ニューヨーク便り」と称して、米国社会の様子、その米国社会で悪戦苦闘する家族の様子、私の仕事のことなどを盛り込み、日本のみなさんに送らせてもらっていました。多くの大分の方々にも読んで戴きました。
このニューヨーク便りを本ホームページ、「ニューヨーク便り」のコーナーに掲載しておりますので、興味を持って戴ける方は、こちらをお訪ね下さい。