吉良州司の思索集、思うこと、考えること

2019年6月2日

平成から令和への御代替わりに思う(広報誌18号)

平成から令和への御代替わりが、上皇陛下への感謝と敬愛の念を伴いつつ、国民の祝意と大歓迎ムードの中で行われたことは感激でした。
この御代替わりを通して、天皇と天皇制が、そして皇室が多くの国民から熱烈に支持されていることがわかりました。このことは、上皇陛下が平成の30年間、常に国民に寄り添われてきたことへの国民からの恩返しであったと思います。

(※広報誌のバックナンバーをご希望の方は、お問合せページからご請求ください)

>>当記事は広報誌18号に掲載されています。

国民への感謝と敬意の念を伝える上皇陛下

昨年の平成最後の天皇誕生日における上皇陛下のお言葉に、涙が止まりませんでした。

お言葉の中には、自然災害の犠牲になった方々、先の大戦で尊い命をなくした方々、苦難を強いられてきた沖縄の人たちに寄り添おうとするお気持ち、戦後の日本国民が戦争と敗戦後の困窮・苦難を乗り越えて平和な国を築いてきたことへの感謝と敬意の念、障害と戦いながら力強く生きる障害者への深い愛情、災害時に被災地に赴くボランティアに対する敬意と称賛の念、が誠意溢れるお言葉で語られていました。
また、世界平和を希求する強いお気持ち、それゆえに昨今の民族紛争や宗教による対立やテロによる犠牲が多発することへの深い憂慮と懸念も述べられていました。
更には、「日本民族の長」として、日本がまだ貧しかった時代に、新天地を求めて海外に雄飛していった日系人に対する愛情、その日系人を温かく迎えてくれた国々や人々に対する感謝の思いを伝え、それだからこそ、今、日本に働きにくる外国人をみんなで温かく迎えようと呼びかけます。

戦争のない平和な国であり続けることへの切なる願い

何よりも陛下が一番伝えたかったことは、戦争のない平和な国であり続けることへの切なる願いだったのではないでしょうか。上皇陛下御自身も物心ついてから戦争終結の11歳までは満州事変、日中戦争、太平洋戦争と戦争の真っただ中で育ち、疎開生活を余儀なくされていたこともあり、戦争のない国、平和を願う気持ちを誰よりも強く持っておられたと思います。昭和天皇が果たせなかった、祖国に残された家族を想いながら太平洋で散っていった戦没者への慰霊の旅を、高齢も顧みずに決行されたのは、ご自身の御代で、先の大戦の深い反省と犠牲者への慰霊に一区切りつける覚悟だったのではないでしょうか。パラオのペリリュー島において皇后とともに深々と頭を下げられる上皇陛下の姿に胸を打たれたことは今でも忘れられません。
上皇陛下が如何に強く永久の平和を願っていたかは、次の言葉でわかります。「我が国の戦後の平和と繁栄が、このような多くの犠牲と国民のたゆみない努力によって築かれたものであることを忘れず、戦後生まれの人々にもこのことを正しく伝えていくことが大切であると思ってきました。平成が戦争のない時代として終わろうとしていることに、心から安堵しています」と。

苦難にある人々に寄り添う「象徴天皇」

思えば、平成時代は、上皇陛下が「象徴としての天皇」像を模索し続けた30年だったのではないでしょうか。
今年2月に催された「天皇陛下在位30周年記念式典」において、上皇陛下は、「災害の相次いだこの三十年を通し、不幸にも被災の地で多くの悲しみに遭遇しながらも、健気に耐え抜いてきた人々、そして被災地の哀しみを我が事とし、様々な形で寄り添い続けてきた全国の人々の姿が忘れがたい記憶」だと、苦難にある人と苦難にある人へ寄り添う国民への慈愛の言葉を投げかけられました。
昭和天皇は、その前半生は「現人神」でしたが、上皇陛下は、最初から「象徴天皇」として即位された、歴史上はじめての天皇でした。そして、常に国民に寄り添い続け、特に苦難にある国民に対して慈愛を以って寄り添い続けた結果、国民から愛される「象徴天皇」像を確立されたのだと思います。

上皇陛下の「慈愛に充ちた天皇」としての背中を見続けてきた今上陛下の令和の御代が、戦争のない平和な時代となること、そして、一人ひとりが幸せ感を感じられる日本になることを祈ります。

バックナンバー