北方領土問題の本質と対応 その4 一般的にはあまり知られていない事実2
今回は、北方領土問題シリーズ第4弾です。
前回のメルマガでは、5つの質問を投げかけ、私が(1)についてのみ、答えさせてもらいました。今日は、残り4つの質問とその私なりの答えをお伝えします。
<ロシアが、「第二次世界大戦の結果として、4島はロシア領土となった」と主張するのは何故でしょうか、の答え>
ヤルタ会談において、米英から要請された対日参戦の条件として、ソ連は千島列島の領有を要求していました。日本としては、日露通好条約や樺太千島交換条約という平和時に確認した国際約束においても、4島は日本固有の領土として、「千島列島」に含まないことが、確認されていましたが、ソ連側は「千島列島の一部」として、4島の領有も狙っていました。
<米国が北方領土問題に関しては、クリミア問題のようにロシアを厳しく批判、追及しないのは何故でしょうか、の答え>
この答えもやはり、ヤルタ会談において、米国が対日参戦を要求しているからです。また、あまり知られていない事実ですが、当時のソ連は、留萌~釧路を結んだライン以北の北海道を分断し、領有することを狙っていました。実際、その目的を達するための部隊も樺太において編制されていました。そして、当時、日本を占領していた米国にそのことを打診しますが、そのソ連の要求を米国は拒否します。当時、米ソ間ではまだ国力の差が大きかったので、ソ連は米国の拒否に抗う力がなく、北海道北半分の占領と領有を諦め、その部隊はそのまま、北方4島の占領に向かうのです。米国は、北海道の分断とソ連による領有を阻止しますが、その代わりに、日本固有の領土4島を含む千島列島のソ連領有を認めていたと思われます。
1945年2月のヤルタ会談当時の米国にとって、(ドイツもまだ降伏はしていない時期ゆえ)最大の敵は日本であり、太平洋戦争による米国犠牲者を一人でも少なくすることを第一に考えていました。それゆえ、当時は、日本を一刻も早く降伏させるため、ソ連に対日参戦の要求をしたのです。しかし、日本降伏後は、ソ連が最大の脅威となり、ソ連の対日影響力拡大を警戒して、米国の北方領土に対する方針を転換します。つまり、4島は日本の固有の領土であること、それらを日本に返還するようソ連に要求すべきだと、方針転換します。
<1956年の「日ソ共同宣言」において、鳩山一郎総理が4島ではなく、2島「引き渡し」で折り合おうとしたのは何故でしょうか、の答え>
この当時、ソ連において、何らかの有罪判決を受けていた日本の「シベリア抑留者」がいたのです。当時の鳩山一郎総理は、この方々を一刻も早く家族の元に返したい、との切なる思いを抱いていました。
また、1951年のサンフランシスコ講和条約締結時、吉田茂総理は「歯舞・色丹は北海道の一部」、「国後・択捉は南千島」と、千島列島の一部であると、受け取られてしまう説明をしていた経緯あります。
一番大きな理由は、当時の日本の国力が脆弱であったことで、今のように、経済力や技術力など、ソ連が欲する「売り」を持ち合わせてはいませんでした。
<「日ソ共同宣言」において、2島で折り合おうとした事実にも拘らず、日本政府が2島ではなく、4島返還を主張し続けるのは何故でしょうか、の答え>
冷戦真最中のソ連の脅威を前に、日ソ関係の改善や、最悪の場合の日本の共産化を恐れた米国が2島で折り合うことを拒否するのです。日本とソ連が接近しないことを目論む米国は、「2島で折り合うならば、沖縄返還には応じない。4島は固有の領土として、主権を主張し続けるべしと日本に対して圧力をかけるのです。このことは、当時の米国国務長官ダレスが主導したので「ダレスの恫喝」と言われています。
今日も既に長くなりましたので、次回は、北方領土問題の順を追っての歴史的経緯について、お伝えします。
吉良州司