北方領土問題の本質と対応 その5 歴史的経緯1
北方領土問題シリーズ第5弾です。今回からは、いよいよ北方領土の帰属問題自体に関する歴史的経緯についてお伝えします。
また、次の質問をさせてください。
(1)「北方4島は日本固有の領土だ」と断言できる根拠は何でしょうか?
如何ですか。いくつもの理由を思い浮かべられたと思います。よくご存じの方は、日魯通好条約(1855年)や樺太千島交換条約(1875年)を想起されたのではないでしょうか。
そうですね。そもそも論的事実とこれら二つの条約が、その大きな根拠ですね。
説明をより分かりやすくするために、 以下、北方領土問題に関する現在の地図と条約による領土の変遷地図を示していますので、是非、ご参照ください。
1.そもそも論
日本はロシアより早く、北方四島(択捉島、国後島、色丹島及び歯舞群島)の存在を知り、多くの日本人がこの地域に渡航していました。また、松前藩は、17世紀初頭から、北方四島を自藩領と認識し、徐々に統治を確立してきました。
これに対して、ロシアは、18世紀はじめにカムチャッカ半島を支配した後に千島列島の北部に現れて我が国と接触するようになりました。しかし、ロシアの勢力がウルップ島より南(北方四島)にまで及んだことは一度もありませんでした。
2.日魯通好条約(1855年)
上記のような背景から締結された1855年の日魯通好条約(下田条約。日露和親条約ともいわれる)は、当時自然に成立していた択捉島とウルップ島の間の国境をそのまま確認するものでした。これは、平和時に日露両国間で争点なき国境認識を相互確認した大変重要な条約です。
3.樺太千島交換条約(1875年。北方4島を「日本固有の領土」とする根拠条約)
本条約も平和時に締結されたことに大きな意義があります。そして、もっと重要なことは、この条約の中で、北の占守(シュムシュ)島から得撫(ウルップ)島までの18の島々を「千島列島」と列挙しています。日本政府は、本条約を根拠に、「歯舞群島、色丹島、国後島、択捉島の北方四島は、千島列島に含まない」との一貫した立場を取り続けているのです。
「固有の領土」であると堂々と説明できますね。
(2)では、この我が国固有の領土を虎視眈々と狙う、ソ連(ロシア)の執念は一体いつ頃から生まれているのでしょうか。
日本は、千島樺太交換条約で千島列島全てを領有していたことに加え、日露戦争後のポーツマス条約において、ロシアから樺太(サハリン)の北緯50度以南の部分を譲り受けました。
しかし、この日露戦争の敗戦とポーツマス条約がロシア人の深い傷と怨念になっていました。
スターリンは、日本が、戦艦ミズーリ号の甲板上で降伏文書に調印した1945年9月2日のラジオ放送において、次のようにソ連国民に呼びかけます。因みに、この時点では、国後、択捉、色丹を既に占領し、歯舞群島の占領を完了(9月5日)する直前のことでした。
<スターリンの「ソ連国民に対する呼びかけ」>
(前略)1904 年の日露戦争でのロシア軍隊の敗北は国民の意識に重苦しい思い出をのこした。この敗北はわが国に汚点を印した。わが国民は、日本が粉砕され、汚点が一掃される日がくることを信じ、そして待っていた。40 年間、われわれ古い世代のものはこの日を待っていた。そして、ここにその日はおとずれた。きょう、日本は敗北を認め、無条件降伏文書に署名した。
このことは、南樺太と千島列島がソ連邦にうつり、そして今後はこれがソ連邦を大洋から切りはなす手段、わが極東にたいする日本の攻撃基地としてではなくて、わがソ連邦を大洋と直接にむすびつける手段、日本の侵略からわが国を防衛する基地として役だつようになるということを意味している。(後略)
ロシア(ソ連)は、日露戦争の雪辱を果たそうとしていたことがわかります。
また、長くなりましたので、続きは次回に譲ります。
吉良州司