北方領土問題の本質と対応 その6 ソ連による北海道分断占領と領有化の意図
今回は、北方領土問題シリーズ第6弾です。
前回のメルマガで投げかけた質問と私の回答の中で、<米国が北方領土問題に関しては、クリミア問題のようにロシアを厳しく批判、追及しないのは何故でしょうか>について、一方では、ソ連による北海道分断占領と領有化の意図があったことの事実を知らなかった方から、また一方では、背景を詳しく知っておられる方から、いずれももう少し踏み込んだ内容を知りたいとのご意見、要望がありました。
そこで、この問題について、もう少し詳しく説明させて戴きます。国際政治の駆け引きの現場を垣間見ることができます。しかし、我が国の固有の領土である北方領土のことを米国、ソ連が、各々の国益の観点から我が国の意向を全く無視して、勝手に決めようとしていたことにあらためて憤りを感じると同時に敗戦国の無力感を思い知らされます。
1.ポツダム宣言受諾の遅れがソ連の北方領土占領の原因
「日本の一番長い日」という映画が2本あります。私は、三船敏郎が阿南惟幾陸相を演じる最初の1967年版を見て、阿南陸相の切腹シーンなど、ものすごい衝撃を受けたことを今でもよく覚えています。最近では、役所広司が阿南陸相を演じる2015年版も見ました。どちらも終戦の日前日の昭和20年8月14日からの15日までを「日本の一番長い日」として、ポツダム宣言受諾から、終戦のご聖断、終戦の玉音放送、阿南陸相の切腹までを描いた映画です。どちらの映画も私が知る限り、かなり正確に歴史を再現していると思います。
(1)ポツダム宣言発出から日本の受諾までの20日間
8月14日から終戦日の15日までの24時間が日本の一番長い日ならば、ポツダム宣言が発出された7月26日から、受諾の8月14日までの20日間は、「日本の運命を決定づける日本の一番長い20日間」だったと思います。
この間、8月6日の広島への原爆投下、9日のソ連参戦、9日同日の長崎への原爆投下、同じく9日の御前会議における「ポツダム宣言の受諾のご聖断」、14日のポツダム宣言受諾の連合国への通達、まさに、日本の命運を左右する、そして、極めて残念なことにあまたの命を犠牲にしてしまった20日間でした。
もし、7月26日のポツダム宣言発出直後に受諾していれば、広島、長崎への原爆投下もソ連の対日参戦も(従って北方4島のソ連占領も北方領土問題も)なかった可能性があると思うと胸が痛みます。
(2)ポツダム宣言受諾を遅らせた責任
ポツダム宣言受諾を遅らせ、当時のわが国を最悪の状況に追い込み、結果として、北方領土問題を生み出してしまった責任は、当時の軍部と外務省幹部にあります。
軍部は、国体護持に加え、武装解除と戦犯処罰は日本側で行うこと、日本本土の占領は行わせないことを主張して譲りませんでした。
外務省は、冷静で適格な判断ができる有能な外交官である当時の佐藤尚武駐ソ大使は、スターリンが、日ソ中立条約を破り、対日参戦する可能性が極めて高いことを本国に(東郷外相宛てに)再三伝えていましたが、東郷茂徳外相は、「終戦のためにソ連の仲介、斡旋を求める」ことに執着し、ソ連の色よい回答に期待を繋いでいたのです。
その結末は、8月8日のソ連による対日宣戦布告でした。何と甘い読みだったのでしょうか。ソ連による終戦斡旋の可能性がないどころか、8月9日未明にソ連軍が満州になだれ込んできました。万策尽きて、8月9日にポツダム宣言を受諾するのです。
2.ソ連による北海道分断占領と領有化の意図
ソ連の対日参戦が米英ソ3国首脳で最終的に確認されたのは、ヤルタ会談ですが、前回のメルマガでもお伝えしたように、ソ連はそれ以前から対日参戦を画策していました。それを実現するためにスターリンは実に巧妙な外交手腕を発揮します。その詳細をすべて述べれば、紙数が足りませんので、最終局面における巧妙さを披露します。
(1)米国トルーマン大統領との駆け引き
ヤルタ会談に参加した米国ルーズベルト大統領は会談後に死去し、トルーマン大統領へと引き継がれます。トルーマン大統領になってからのある段階では、米国が最北端の4島を除く中部千島列島を、米国の独占的な軍事行動の範囲として、ソ連にもそのことを認めさせていた時期があるのです(ポツダム会議における米ソの軍部首脳による合意)。それにも拘わらず、ヤルタ会談以前から対日参戦を画策していたスターリンは、巧妙にトルーマン大統領と駆け引きして、最終的には北方領土を占領するのです。
(2)連合国最高司令官の「一般命令書第一号」
連合国最高司令官は8月14日にスターリンに対して「一般命令書第一号」の原案を送付します。一般命令書第一号は、基本的には、当時の日本軍が、どの国の司令官に降伏するかを定めています。しかし、ソ連の司令官に降伏する地域の中に、ヤルタ会談で約束されていたはずの、「千島諸島(クリル諸島)」が含まれていませんでした。
この、ソ連には納得がいかない原案の背景には何があるのでしょうか。
ヤルタ会談以前の米国は、一人でも米国兵の死傷者を少なくするため、日本を一日でも早く降伏させるには、ソ連の対日参戦が必要だと考えていました。しかし、その後、ドイツは降伏し、原爆の開発、実用化も視野に入ってきていた段階では、ソ連の参戦がなくとも、米国だけで日本を降伏させうると判断します。
実際、日本を降伏させたことや、上記のように、ポツダム会談において、最北端の4島を除く千島列島を、米国の独占的な軍事行動の範囲とすることにつき、ソ連の合意を取り付けていたことも大きく影響しています。
(3)スターリンの反撃
この一般命令書第一号原案に対して、スターリンは、トルーマン大統領に返信します。内容は、他のすべての条件には同意するが、2点だけ修正したいというものです。1点目は、ヤルタ協定に基づいて、日本軍がソ連軍に降伏するする地域として、「全」クリル諸島を含むこと、2点目が「留萌・釧路ライン以北の北海道北半分をソ連の占領地域とする」というものでした。2点目に関しては、「もし、ソ連軍が日本固有の領土に少しでも占領地を持たなければ、ソ連の世論はひどく腹を立てるだろう」と威喝しています。このことは、現在でもロシアが「日本固有の領土である」北方4島を頑として譲らない遠因、いや本質なのかもしれません。
スターリンとしては「北海道北半分のソ連による占領」の条件提示は「かまし」や「おとり」であり、トルーマン大統領から蹴られることは想定していました。しかし、拒否される代償として、「全」クリル諸島の占領(ひいては領有)を確実に勝ち取ろうとしていたのです。巧妙なのは、ヤルタ会談においては、定義のない「クリル諸島」の「引き渡し」が条件だったのに、ちゃっかりと「全クリル諸島」の占領を認めよとトルーマンに迫ったのです。
(4)トルーマンの事実上の北方4島占領の承諾
トルーマンとしても、満州や朝鮮において、ソ連が勝手な行動に走るのを避けるため、北海道北半分占領条件は拒否しますが、その代わりに、日本軍がソ連極東軍の司令官に降伏する地域に「全クリル諸島」を含むこと(ソ連が全クリル諸島を占領すること)に合意を与えてしまうのです。トルーマン大統領はまんまとスターリンの罠にはまったのです。
因みに、ロシア語を英語に訳した米国の外交資料を読みましたが「all the Kurile Islands」とわざわざ「all」を付けています。
尚、スターリンは、北方4島を含む全クリル諸島を占領するための「かまし」「おとり」として北海道北半分占領条件を出したのですが、万が一、米国が受諾する場合に備え、軍部に北海道北部占領計画を描かせ、且つ、二個師団、一個空軍師団、太平洋艦隊の一部を北海道北部占領作戦のために配置していたことを付記しておきます。
以上のような経緯から「米国は、留萌・釧路ライン以北の北海道領有を主張するソ連の要求を拒否するも、その代わりに全千島列島のソ連領有を認めたと思われる」と説明したわけです。
以上、かなり長くなって申し訳ありませんでしたが、「ソ連による北海道分断占領と領有化の意図」について「もう少し詳しく説明してほしい」との要望に応えて、説明させてもらいました。
この説明でも、かなり要約しており、実際には、もっと複雑な背景、やり取りがありますが、紙数の関係上、この程度の説明とさせて戴きますことご了解願います。
尚、ヤルタ会談の全容を以下に掲載していますので、そちらもご参照ください。
吉良州司