緒方貞子さんのクルド人救済に思う知行合一
今回は、「緒方貞子さんのご冥福を祈ります」の続編です。
イスラム国(IS)を相手に、最前線で一歩も引かずに勇敢に戦うクルド人について、日本ではあまり馴染みがないと思います。最近は「クルド人」と検索すれば、すぐに民族の歴史をはじめ、その詳細情報を入手できますので、ここでは、詳細は割愛しながら、緒方貞子さんが、イラク領内のクルド人を「難民」として救った背景に絞って、自分の思うところをお伝えしたいと思います。
釈迦に説法となる方もいると思いますが、クルド人は国家を持たない最大の民族と言われます。元々中東の山岳・砂漠地域の山岳民、遊牧民である約3000万人が、主にトルコ南部、シリア北東部、イラクの北部、イランの北西部に住んでいます。クルド人にしてみれば、自分達が形式上属する「国」よりは、クルド民族としての一体感、アイデンティティの方が勝っていると思われます(もちろん、クルド民族の間でも宗派や利害を異にする場合があります)。
クルド人は、中東、東欧にまたがる強大な帝国であったオスマントルコ帝国の領土内(上記4国にまたがる地域内)に住んでいました。第一次世界大戦中、オスマントルコ帝国は、クルド民族の国家としての独立を約束していました。しかし、ケマルパシャがトルコ共和国を樹立した際(オスマントルコ帝国の滅亡)、この約束は反故にされました。新生トルコ共和国は独立クルド人国家を認めず、現在のトルコ領内に住むクルド人のトルコ化(同化)を強く求めます。一方、英国、フランス、ロシアは第一次世界大戦中の1916年にサイクスピコ協定を締結し、大戦後のオスマントルコ帝国領土の分割と英、仏、露の勢力範囲を取り決めます(現在のトルコの東部はロシア、現在のトルコ南部とシリアはフランス、現在のイラクとヨルダンは英国)。悲願のクルド人国家樹立の夢は絶たれ、クルド民族はその居住地により、現在のトルコ、シリア、イラク、イランの4か国に分散的に帰属せざるをえなくなったのです。近代、現代は、民族自決原則に基づき、各民族ができる限り独自の国家を持てることを標榜してきました。しかし、クルド人の民族自決の夢は叶えられませんでした。
このように、クルド人にとっての国境は、当時の列強により、その地域に住む民族の全く与り知らぬところで取り決められたものであり、まさに「取って付けたようなもの」なのです。
緒方貞子さんのイラクにおける大決断以前、国連が救済してきたのは、国外に避難した人々でした。しかし、上記のような歴史的背景から、当時のイラク北部にあっては、「国境」というものは意味をなさないこと、それ故、命の危険に晒され、迫害され、苦難にあえぐクルド人を救うには、「国境に囚われた先例」に囚われてはいけないことを、誰よりも深く理解していたのが緒方貞子さんだったのだと思います。
そして、何よりもすごいのは、考えるだけでなく、考えたことは、大きな壁が立ちはだかろうとも実行することです。「知行合一」こそ、緒方貞子さんの本質ではないかと思います。
吉良州司